0522
朝起きてウキウキしながらはんだ付けをし、午後にはなんとか静電容量スイッチが動いた! チャタリング対策とかはしていないし、いろいろ固定できていないのでこのままでは実用に堪えないが、とりあえず原理的にはこれで問題ないはずだ。ほっとした。試作三号機の基板を発注した。あとはプレートもアクリル加工を依頼するとかしなくてはなるまい。楽しみだ。
夜は本を読みながらゆるキャンを観たりした。いい日曜日だった。
TwitterのようなSNSには、言語的な語りしか存在しない。語られなかったものは存在しない。存在するものはすべて語られている。そういう場所で道徳について言及することは難しいなと感じる。
道徳規範というものは、本質的に一貫していることを要求されているから、少なくとも言語的に語られたことは一貫していなければ道徳的だとは評価され得ない。一方で、道徳に従うというのは、本来とても個人的な、私的なことであるように思う。誰もが常に完全に道徳的に振る舞うというのは、間違いなく不可能だし、そもそもそんなことは期待されていなかったであろう。誰もがまあまあの道徳性で暮らしをやっており、でも時々はこっそりズルをして、嘘をついて、そしてそのことをやましく思って生きていたであろう。言語化され、公的なものである道徳規範と、個人の私的な道徳的振る舞いとの間にはそういう緊張関係があるものだと僕は考える。
SNSはその私的な側面を消してしまう。仮に私的な部分を表現しようとしたとしても、語られた時点でそれは公共的なものであり、一貫性の力学に捕らえられる。そうなればもう、「時々はこっそりズルをする」ことは許されない。ダブルスタンダードだからだ(あるいは、ダブルスタンダードとなるようなスタンダードを立てなくてはならなくなる)。その結果としてSNS上の人格には2つの選択肢が現れる。技巧によってダブルスタンダードを解きほぐし一貫した規範を復活させるか、批判者を全員ブロックするかだ。後者は言うまでもないが、前者もあまり正気の態度だとは思えない部分がある。そのようにアドホックに作られた規範に本当に従うということが可能なのか、あるいはそれはさらなる技巧による増築の無限連鎖ではないのか。そもそもそのような規範を発明するのが本当に目指されるべきことだったのか。個人的にはまったくそうは思わない。
結局、SNS上で正気を保ちながら道徳について言及する方法はないと考えている。黙ってやるしかないのだ。語りだけが存在するSNS上ではなく、実際の道徳的対立、調停が発生する現実の場において、道徳的に振る舞ったり、こっそりズルをしたり、良心の呵責を感じたり、謝ったり赦したりすればいいのだ。なんかこう、現実へ帰れみたいな話になって嫌だな。しかし、今はこういうことを考えている。