0226
今日も昼頃に起きてゲームをした。夜まで掛かってようやく「サクラノ詩」クリア。
やはりね、VI章は本当に好きだし、というか僕が小説を書くなら描きたいと思っていることは結局だいたいここにあるなと思った。もしかすると全部かもしれない。そんなことはないか。
これでようやく「サクラノ刻」に入れる。とりあえずI章を読み始めた。この話やるんだ。
単行本刊行ペースの遅いマンガを複数追っておくと、いつもどれかは新刊が発売されるので、寂しくなくてよい。
今日も昼頃に起きてゲームをした。夜まで掛かってようやく「サクラノ詩」クリア。
やはりね、VI章は本当に好きだし、というか僕が小説を書くなら描きたいと思っていることは結局だいたいここにあるなと思った。もしかすると全部かもしれない。そんなことはないか。
これでようやく「サクラノ刻」に入れる。とりあえずI章を読み始めた。この話やるんだ。
単行本刊行ペースの遅いマンガを複数追っておくと、いつもどれかは新刊が発売されるので、寂しくなくてよい。
昼に起きてずっとゲームをしている。「サクラノ詩」、まだIII章を埋めてるところなので半分行くかどうかくらいか?けっこうざっくりスキップしているけど全然終わらない。
今夜は妻が所用で留守にしていて独りでいる。こうして独りで夜更かししてノベルゲームをやっているのは、ずっと昔を思い出すなと思う。思い出し、重ねてみて気づく、違っている部分。似たようなことをしているようでいて、やはりずいぶん遠くまで来たものだと思う。
immoralであることは言語で記述できるが、amoralであることは語り得ない。真に道徳的であるためには黙ってやるしかないのと同じように、真にamoralであるためには黙ってぶち壊すしかないのだ。
中一日での登板。やはりまだ本調子ではないがやりたかったことは半分くらいは終わらせた。ただ今日作るつもりだったスライドが何一つ手つかずである。月曜日の午前でなんとかする。
「サクラノ刻」が発売されたので、復習のために「サクラノ詩」をプレイしている。これ2015年の作品なんだな。いや、それはわかっているんだが、引き算して7年前と思うとけっこう驚きがある。あれからもう7年??いや、冷静に考えるとそうであっておかしなことは何一つないが……。こういう感覚はいまだ慣れない。慣れることなどないのだろう(ほとんど自明にそうだ)。
しかし、なんというか、しばらく離れている間にこういうノベルゲームの日常パートとかがかったるく感じられるようになってしまったような気がする。いや、昔からそれはそうだったか?でもずっと昔にはそういうのも含めて楽しんでいたような気がするけど。あれか。ギャルゲーなのにギャルゲーとして楽しむということをもうできなくなったのか?いやいや、それこそそんな時期あったか?
このペースだと土日の間に「サクラノ刻」に到達できるか怪しい。でも復習なしで読むのも無理があるし、やっていくしかない。
寝ま。
典型的な休日と同じように、昼頃に起きて、ギターを練習して、コードもすこし書いた。Misskeyをすこし偵察したり、ローカルで起動させて観察したりした。Mastodonよりはこちらを参考にしたほうがいいかもな。実装を読むならRailsのほうが慣れてて楽なのだけど。
あとは妻に髪を切ってもらった。その間本を読んだ。期待したほどの内容がなかったのでフームと思った。
寝ます。
結婚してから3年が経った。なんか早くない?3年ってこんなものだったか。このまま進むとスッと10年とかになってしまう気がする。あんまりスッとそうならないように日々を積み重ねていきたいね。(#今日の積み上げ)
体調は幾分回復した。もう熱は出ていないが、まだお腹の調子は不穏なままだ。あまり食べないようにしている。午前中はすこし頭が重かったが、午後には回復した。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがあるらしい。「あるらしい」というのは、自分自身が問いかけたことも、問いかけられたことも記憶にないからで、しかしこういうのを青少年が大人に問いかけて困らせたりしているらしい。
まず明らかに、ほとんどの国では殺人は法的に禁止されている。それは、そのような規則なしに安定した社会を持続させるのは難しいからだと答えられる。また、例外的に殺人が許容される場合(刑罰など)があることも、(怪しい部分はありつつも)一応説明ができる(独裁者が秩序の維持の目的で反抗的な国民を殺すパターンも許容できてしまうが、とりあえずは現にそうなってはいないことが多い)。
法的な問題を無視した場合、人を殺してはいけない究極的な理由があるのか、と問われれば、別にないだろうとは思う。別にないのだが、「別にない」という回答をおおっぴらに人々が語るようになってしまえば、法律だって形骸化してゆく。そうなれば、法律によって達成されたかに見えた社会の安定化の効果は失われてしまうだろう。だからこの回答は悪い回答で、つまりこの問いに道徳のレベルで正しく答えることはできない。「やめておけ」と言うことしかできないのだ。
こういう二重の回答で納得してもらえるだろうか。それとも「仮にそうだとしても、そう答えることはできない」というあたりに、大人の薄汚さみたいなのを感じとられるだろうか。
なんか夜中に発熱してしまって仕事を休んだ。ずっとお腹が痛いのでまあなんか胃腸炎か何かなんだと思う。やれやれ。体力が尽きたせいなんだろうか。
ともあれ寝ます。
会社の業務体験ということでオフィスに行き、一日中立ち仕事をした。普段開発に関わっているシステムが実際に使われる場面や、実際の現場の雰囲気を知ることができ、とてもインスピレイションを受ける体験だったが、とにかく肉体がついて行けず、腰が破壊されてしまった。最後らへんは本当に辛そうな顔をしていただろうと思う。やれやれ、いつの間にこんなに軟弱に?(とはいえ、一日に7時間も直立していて大丈夫だったことなど僕の人生にはそもそもないのかもしれない)
疲れすぎたので、今日はそれだけにします。
オニーク。
昼に起き、近所のイタリアンに行きたかったが満席だったのですこし歩いて油そばを食べた。模範的な油そばの味がした。
午後はギターを練習したりリファクタリングしたりした。一生リファクタリングして終わるお前のプロジェクト。仕方ないよ、概念の理解は少しずつ改善していくんだから。しかし、趣味開発とはいえモチベイションは有限であって、それを絶やさないうちに先へ進まねばなるまい。
ChatGPTに感情カウンタを管理させることで感情をシミュレイトできることが発見されたらしい。であれば、架空の感情(「こじむい」とか)を学ばせて、そのような言語ゲームに参加させることも可能だろうか。あるいは、こちらの感情カウンタを推定させることは可能だろうか。また、自分の感情カウンタを常に出力せず、嘘をつきながら話すことは可能だろうか。興味が尽きない。それなら自分で試せばよいのだが、思いつきが成功するようにあれこれ試すほどの気力はない。そのうち誰かが試すだろう。
人間の感情も部分的にはこんな風にできているのではないかと考えるのはいささか飛躍しすぎだろうか。しかし、一部の原始的な感情はともかく、後天的に発達した社会的な感情というものはあるように思われる(ある種の悲しみとかはそうではないだろうか)。そういう部分はこんな風に言語的に作り込まれているのかもしれない。ただ、人間は自分の感情カウンタを出力できるようにはなっていない(そうか?訊かれれば誰だって感情を答えるかもしれない、それが本当である保証はないが(それはChatGPTだってそうだ))。
寝ます。明日はすこし早起きをして、オフィスで業務体験をします。楽しみだが、早起きは大変。
土曜日。主にギターを練習した。Cmaj7 → D → Bm → Em。Bm →Bが厳しい。まあ練習始めて2日目だしな。
あとBing検索ですこし遊んだ。検索を駆使してそれっぽいことを言う能力は向上しているが、却って突飛なことは言わなくなっているような印象もある。何かというと検索に頼ろうとするのはすこし気に入らない。この感覚はどことなく老害っぽいな。
検索でTwitterを発見できるので、僕の文体模写ができるようだった。ある程度のそれっぽさがあり、なんというか、自分の模倣をやられて初めて実感するすごさみたいなのを感じた。
夜はもつ鍋を食べた。大変満足。あと2回分あるので楽しみだ。
ChatGPTやらBingやらが、「思考」なのか、は今後詳しく調べられていくことだろうけど、個人的にはかなり思考っぽいなと感じている。内言を出力しながら回答せよと指示したら本当にその通りにしたときはびっくりした。
こんなのは本質において人工無脳と大差なく「思考」ではない、とする、それもまあわからなくはないのだが、自己を振り返れば振り返るほど結局思考なんてこの程度のものではないかと思われてくる。少なくとも僕が内言として自覚している範囲の思考はだいたいこんな感じだ。Bingはたまに明らかに誤った推論をすることもあるが、僕だって寝ぼけながら羊を数えていたら119の次を200にしてしまったことくらいある。論理的思考というやつも、そうせよと言われたとき以外にほとんどした覚えがない。俺たちは雰囲気で論理をやっている(と感じている)。
いつかこんな風になるだろうとずっと想像はしていたが、生きているうちに見られる日が来るとはあまり思っていなかった。これは素直に嬉しい、ビッグニュースだ。
なんだか頭が重く、シャキッとしない日だった。お昼に13:30まで昼寝しようとして目覚ましを11:30にセットするなどした。危なかった。このミスは何度かしたことがあり、いまのところ大事に至ったことはないのだが、どうにかしたい。しかし、寝ぼけている時ほどこういう勘違いをしがちなので、どうにもならない。
夜はギターを弾いた。カポタストをつけるとなんかゴツいコードがスッと簡単になることがあり、「星座になれたら」とかは案外簡単になった。案外簡単とか言っているがべつにすらすら弾けるわけではない。でもBmとかFとかは慣れると案外簡単というか、楽ではある。Bはキツい。ともあれしばらくはこれで練習してみようかなと思う。
JAXAがロケットの打ち上げに失敗したらしいのだが、それを失敗と呼ぶか中止と呼ぶかでインターネットが揉めていた。まああの執拗に失敗の言質を取りに行った記者の態度は褒められたものではないけれど、なんかこう、正常に異常検知が作動して停止したので失敗ではないだとか、打ち上げ段階より手前だからそもそも何もしておらず失敗ではないとか言われると、「???」と思ってしまう。いや、まあ業界の術語としてそういう定義があってそうやっていますよ、というのであればそれは理解できるけれど、外から見たら失敗も中止も大差ないわけで、あんまそこの区別に拘泥するのは、よくないエンジニアしぐさっぽさがある。
とはいえ、失敗という語からは損害賠償だとか責任問題だとかが想起される人が多いというのもおそらく事実なので、仕方ないのかもしれない。個人的にはgracefulに失敗するのは良いことだと思うくらいだから、破局的な結果に至らずに失敗できた、という形を誇ってもいいくらいに思うけれど、そういうのはあまり支持されないのかもしれない。でも、イーロン・マスクがどれほどロケット打ち上げ失敗したかと思うと、失敗を悪みたいに扱うのはやっぱりナンセンスに感じられる。別にイーロン・マスクが偉いと言いたいわけではないけれども。
僕も日頃の業務でソフトウェアのデプロイをすることはある。デプロイ手順の途中でいろいろな自動検知が働いて、不具合のあるものがデプロイされたり、不完全な形でデプロイが完了したりすることを防ぐために途中で停止することがある。それを僕は普通にデプロイの失敗と呼んでいるし、それはそれなりに普通の感覚だとも思う。そういう感覚からすれば、今回の打ち上げは失敗だったと思うし、だからまたどっか直してリトライすればいいだけだと思う。
寝るぜ。スヤスヤとな。