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何をしましたっけね。ああそうだ、ほこらんさんとうあーさんと喫茶店でオフ会をした。道徳の話と独我論の話をした。
僕が今から振り返ってみたときに、僕の人生で独我論が果たした役割というのは、つまり「自分は特別である」ということを、社会の次元ではなく(より上位の)「存在の次元」で獲得することで、社会の中での特別さへの渇望を消すことができたということ、だと思っていたのだけど、そのことについて話しているうちに、なんとなくすこし違った見方が現れてきたので書く。
おそらく、本当は人は誰しもが独我論的な、特権性を生まれつき感じているのだろうと思う。しかし、我々の社会は、教育は、道徳は、それを認めない。誰しもが「世界の中で対等な」一存在でしかないということを大前提として教えられる(特に、一般的な意味での「道徳」はこの前提なしにはおそらく建設できない)。この違和感への一つの拒否反応が、たとえば「中二病」として纏められる一連の行動なのではないかと思う。「自分が特別でありたい」のではなく、「本当は(本当に)自分が特別だった」ことを取り戻したいのに、それは社会の次元では決して達成することができないから、それを擬似的に得るために、社会の次元での特異性、有り体にいえば異常性を見せるしかないのだろうと思う。
そういう意味では、独我論は僕を救った。僕は独我論に触れることで、「存在の次元」において自分は特別であることをもう一度肯定することができるようになった。僕の特別さを(少なくとも僕に対しては)説明することができるようになった。だから僕はもはや社会の中で特別な存在(あるいはその代替としての異常な存在)になる必要はない。僕は自分の特別さを回復して、逆に社会の中での「やっていき」に集中することができるようになったのだ(もちろんそれはそれで別の難しさはある。存在として特別である僕には、一般的な道徳のかわりに僕自身のための道徳が必要になるのだ)。
僕のようではなかった人たちはどうしているのだろうと思った。もしかするとそういう人は、中二病的な異常性を棄てて、社会的成功というもので自分の特別さを回復しようとするのかもしれない。この「社会的成功」にもきっといろいろな種類があるが。典型的にはお金持ちになりたいとか。名誉を求めるとか。うあーさんんは、自分は最初から独我論的な特権性がずっと根底にあって、その後で社会の中での自分を発見したので、最初から社会の中での特別さは必要ではなかった、というようなことを言っていた。もしそうなら、すごいことだと思う。善いことなのかはよくわからない。
夜はほこらんさんとねておきたさんと焼肉に行った。今日はとにかく肉をたくさん食べた。いいね!肉。
明日はのんびりしているつもり。今夜はさっきまでちょっとウトウトしてたんだけど、起きたのでちょっとコード書こうかな。明後日は実家に帰省します。