0930
h.b. > κ.
ついに四半世紀を生きてしまいました。四捨五入すると30です。うわっ。うわっっ。
誕生日というとどうしても内面的な節目になるし、まあ昨日の手続きのこととかもあって、この一年をちょっと総括しようかな、なんて気分になるのだけど、眠いので考えていません。
この一年、健康状態がどんどん悪化してしまったし、精神的にもなんだかいろいろなことが億劫になってしまった感じがあります。人付き合いとかそういうことのコストが。それに加えて自分自身の人格への失望や諦めが支配的になってしまって、僕はもはや他人とまっとうな人間関係を構築することなどできないしすべきでないし望むべきでもないのだ、みたいな確信めいた想いが強くなってしまった。なにもかもが面倒にしか思えないし振る舞えないのに、僕はたしかに寄り添う他者を必要としている(ほんとうに?)。なんなんだこいつは。
僕は誰かに側にいて精神を支えてほしいと思ったりするけれど、そのような関係を維持するリソースが自分には(あるとはもはや思え)ないし、そうでないように振る舞うこともできるとは思えないし、そういった相手にとって自分が魅力的であることができるとも思えないし、そういった相手がいたところで自分がほんとうに救われるとももはやあまり思えないし、そもそもそういう相手を探しに行こうとももう思えなくなっている。こういうことを考えていると、ほんとうに心の底から死んでしまいたくなる。というよりも生きるのが嫌になる。幸福になれないってわかっている人生をあと何十年も続けて、挙句みじめに他人を呪いながら死んでゆく。そんなのはとても耐えられない。頭ではそうわかっているのに、僕は死ぬこともできずにいる。仕方がない、意志決定のスコアの中で、こんな遠未来の要因に割り振られている重みなんて、きっと微々たるものなのだ。ただ遠くにあるというだけの理由で。どんなに遠くたって、それは確実に訪れるというのに。
精神と身体の健康がほしい。精神はじつは比較的充実した感じだと思っているけれど、健康的とは言えない(でも僕の精神が健康的だったことなんてあっただろうか。あったような気がする、でもそれは縋る他者がいたというだけではないのか?)。身体的には絶望的だ。運動をしなくてはいけないのだけど。
仕事は多少順調。ちょっと具合が悪かったけれど、なんとか懸念事項に目処が立った。あとはなにもかもが理想的に協働してくれればいいのだけど。
「(Pが)有り得る」という表現を素朴に否定した「あり得ない」は、「Pである可能性がない」になってしまうのだが、「Pでない可能性がある」を短く表現するにはどうすればいいのだろう。ここで様相論理の記法を借りると、これは「♢¬P」と書くことができて、さらに♢だか□だかの定義から「¬□¬¬P」になり、二重否定を除去して「¬□P」を得る。つまり必然性を短く言うことができればその否定で表せることになるだろう(注意しなければ□¬Pの意味になってしまうが)。
そこまでは考えたのだがそういう言いかたはよくわからなかった。古文には確述助動詞というものがあって云々とか思ったけど、作ってみて「ありなず」みたいな文字列ができたのでこれは違うと思う(そもそも語用論の前に統語論として怪しい)。というか、必然性という概念はただの断言とは趣を異にするはずで(だってそれは可能の否定という形で導入されるものだから)、対応する日本語はないのかもしれない。「あらざり得る」の方向は当然ありえる。「ない」が動詞だったらそれで済む話なのだが、あからさまに動きでもありようでもないものをどうしろと、とは思う。
そういえばF#をインストールしました。まだ触っていませんが。