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風邪です。頭痛はよくなりましたが喉が荒れていて、それからひどく身体が重いです。特に上半身。重いというか、ただ患っているなあという気持ちがする、というのが近いでしょうか。うう。
起きてそろそろ仕事をしようかなあと思っているとδからメール。駒場祭に呼ばれる。はてどういう風の吹き回しかと思いつつ一度は承諾して身支度をするも、起き上がってみると上述のように体調が優れなくて、ああこれはちょっとまずいな、と思って断りのメールを入れる。この間一時間。待たせてしまったなら申し訳ないです。
あと深井さんもいたの?あのへんの人間関係が不穏に繋がっているようで謎い。
夕方はバイトの自宅作業をしています。けっこうピンチっぽい。
http://vcap.vone.co.jp/test_end.php?cp=30&np=22&a=34&fc=39&ac=40
同期から「お前に言いたいことが全て言われてしまっている」というreplyをもらい、ああそうか、僕の縋っていた可能性、つまり僕のネガティヴな自己評価はすべて僕の幻想が生み出した幻であり僕に対する客観的な(?)評価とは関連していないのだ、という可能性はそれこそ都合の良い思い込みでしかなかったのだな、と考える。そんならもう、僕には生きてゆく必要性も可能性もないじゃないか。こんなことを思われながら生きてゆく、そんな屈辱があったものか。
自殺のための具体的手法について検討する。道具とか入手経路とか。そんなもの調べてどうするのか。実行する勇気もないくせに。勇気?生きてゆく勇気もないのに漠然と生きてゆけるのなら、死ぬ勇気がなくても死ぬことはできるのではないか?「それがそうあるべきであるように」。「それ以外であるようなやりかたが考えられない方法で」。死ぬために勇気を絞ることと生きるためにそうすることと、どれほど隔たっているだろう?もはやそこには「生きていればいいこともあるさ」というくたくたになった幻想しか残っていないのでは?「では殿様、その『いいこと』をまず屏風から出してください」「これは一本とられた、あっぱれじゃ」そして従者たちが僕の首に縄を掛け、熟練されたその動きに目を奪われている、そのうちにもう床は抜けている。
ここに書いておく。ここに書いておくのは僕の周囲にいる人がきっとだれもここを読んでいないだろうと思っているからで、つまりそのような手段を選ぶことで僕は自分に対する弁護を確立している。僕は構ってちゃんではありませんと主張すること。
僕は君たちに愛想を尽かされれば、もうそれまでなのだ。
疲れました。
明日はfのライブです。具合がよくなったら観にゆきます。よくならなかったら、よくなるためにねむります。いまのところフィフティ・フィフティ。たとえばいますぐだったらパスかな、と思います。
今夜はもうすこしお仕事してねむります。
めも:もっと推敲のいらない記録媒体が必要?(これでもかなりしている)
記述・削除ごとに履歴を自動で残せるようなものがあれば僕がどういう順番でなにを書きなにを残しなにをやめたのかがはっきりとわかる
なにを書かなかったのか、を遺すこと。
まあそれは一段階面倒なレイヤにひきこもることでしかないような気もするし、そもそもそんなの誰が読むのか。誰に読ませるのか。