八月二十五日ですけど!
有限生成アーベル群の基本定理。
車を買ったらナンバーは1729がよい。
今日は代数学XCの授業ノート(が学科のwikiに公開されてるもの)をすこし読みました。これから夕飯に行って、戻ってきたらまた読むでしょう。しかし、可解群の定義がいまいちしっくりこないというか、これってなにがうれしいのん、みたいに思います(漠然とした予感というか聞いたことあるような気がするのですがたぶん五次方程式の解の公式がないことと(対称群S5が可解でないこととは)関係がある)。
あと夜はSとSkype。いつのまにか、一日コミュニケーションがないだけで「ひさびさ」と思うようになっていて、なるほどなー、みたいな。週末は新宿にでもゆくつもり。涼しくなったら浅草にゆきたいな、など(めも)。
人類に期待していない度合がひどいなと思った。結局「しょうがないじゃん、バカなんだから」みたいに思っている節があるし、そういえば「正しく生きることができれば幸せになれる」というのは対偶を取ってみて「不幸になるのは正しくないからだ」になる(よな)。
なんでこんなことを考えたかというと似非科学のこととかなんだけど、仮にも「科学」側に属する人間としては似非科学の蔓延は科学の信頼のために阻止しなくてはならないのかな、とか、まあでも、みんなが科学なんかもういい、「ありがとう」のほうがいい、っていうならもうそれでいいんじゃないかな、とも思う。そういうのを信じてる人ってのがいたらば全力で「こいつバカじゃねえの」とか思うけど、その人がなにかを信じているからといって僕の信じているものの価値が少しでもおとしめられるわけではないのだから、まあ好きに信じればよい。それに、人を救ってくれるのは「正しい」ことじゃなく「かっこいい」物語だ。
たぶんこういう考え方ができるのは日本にいるからなのだろう、けど(話の着地点が見えない)(ので投げる)。
「正しい」ことは傷つけるばかりでなにも救ってはくれない。なぜならその正しさは世界の全部に広げることができないからだ。自分の中の自分じゃない部分は正しさなんか興味がないし、そもそも世の中には自分以外のほうが多い。完全な正しさの統一の中で浮かんでいたいのに。そこに僕はいなくて、ただ機械仕掛けで進んでゆく。その満足を得るためには神の視点に立たなくてはならないのだけど。いや、神の視点に立つことができればいまの世界だって十分透明で完全だろう。だからやはり自分が無になることが重要なのだ。
うーん、ぜんぶ嘘。でも解脱したいな。
IRCに、高校のパソコン部の友人が久々に(三年ぶりくらい)現れて懐かしい気持ちだ。彼はたぶんとても優秀。今なら彼ともう少しおもしろい話をできる気がする。三年前の彼は三年前の僕をどう思っていたのだろう?