0713
わりとボーッとしていた。本を読んだり、期日前投票に行ったりした。
チームみらいに関しては、やはり自分と比較的似たような仕方でものを考える集団が政党を結成したという事実に率直に期待をするところが大きいのだけど、一方で政治活動というものが「人々の声を聴く」と「効率を良くする」だけで本当にいいのかという部分にそれなりに疑問がある。イデオロギー的に揉めそうな話題(のいくつかのリスト)へ踏み込むことはおそらく意図的に回避されていて、そしてまあ、正直それでいいよという声も多かろうとは思うのだが、議員をやるならそれだけというわけにもいくまいよという直観がある。知らないけども。
とはいえ、彼らが実際選挙で選ばれて国会に行ってみて初めてわかることというのはきっとたくさんあるだろうから、危うさを端々に感じるとしても、期待はしたいかなと思う。政党助成金でソフトウェア作ってほしいみたいなことはそれほど思わないけども。いや、でもそれも実現したらそれなりに面白いか?
言語や論理であらゆることに筋道を立てて説明できるものではないし、すればいいというものでもない、と今は考えているが、たぶんかつてはそうではなかったし、だから今の僕を見たらすこし軽蔑するだろうと思う(軽蔑する理由は他にもいろいろあるかもしれないが)。そんなのは年老いてもはやまともにものを考えられなくなったから、考えなくてもいいような抜け道やレトリックを発見するのが上手くなっただけでしかないと、言うかもしれない(ここで連想するのも烏滸がましいが、ラッセルが後期ヴィトゲンシュタインに言った批判もこんな感じだなと思う)。
そうではない、いや、完全にそうではないと言い切れはしないけれどもそういうことではない、こともあるのだと、もし彼に会うことができたら何と話せばいいのだろう、ということをずっと考えている。
世界を何かでモデル化します。そしてそれについて論理的に可能な組み合わせを試し、帰結をチェックします。それはほとんど唯一合理的にありうる手続きであるけれども、そこにはたくさんの落とし穴が待っている。モデル、特に還元主義的に組み立てたモデルは重要な側面を捨象してしまっているかもしれないし、論理はあくまで論理の都合で繋がっていくもので、実際の現象とは繋がっていないかもしれない。
しかし重大な問題として、何がともあれこのモデルはつねに予測を実行可能な手続きを持っていて、そして予測と比較する対象の現象は必ずしもはっきりしているわけではない。こういう時、そのモデルの妥当性を改めて疑うことは難しい。このような仕方で世界のありようを説明できるという強い信念が、それを疑うことをさらに難しくする。そして、疑ったところで他にやりようがあるわけでもない。
モデル化も演繹的推論も言語化も、あえて標語として言うなら「手段に過ぎない」。手段が美しくハマって見えたとき、そこに引きずられずに問題にフォーカスし続けられるか。見晴らしのよい視点を与えられてしまったがために目が曇ってしまうことはないのか。こういうことを、どう伝えれば納得できたんだろうか。
寝ます。なんか喉の調子が良くない。こういうときたいていは逆食なのだが、風邪との区別が難しい。