0309
妻が「友人から「流れる季節の真ん中」ってLINE来たんだけど何?」と言っていた。僕より全然そういうの知ってそうなんだけど。
妻が行きたいと言ったのでドライブに行った。といっても僕はPp.D(ペーパードライバー)なので助手をやるだけ。すくなくとも東京に住む限り僕がハンドルを握る日は来ないだろうけど、教習所に通ったおかげで最低限の交通ルールや気にすべき点は覚えているから、ある程度有意義なことだったなと思う(それ以外にも僕の人生において大きな意味のある経験だったが、それはまた別の話)。
海鮮丼を食べたり、ガラス製品の直売店に行ったりした。置く場所さえあれば買いたいものが山ほどあったが、置く場所はないので買わなかった。
片道1時間くらいで夕方になる前に帰って来れたこともあってそれほど疲れもせず楽しかった。時々こういうのに行くのもいいかもしれない。僕は運転をしないが。
夜はClineをしばいていた。何回目かのリトライでようやくこちらの意図が伝わった感じがあり、一旦は満足できる仕上がりになったが、手直ししたいところはたくさんある。たぶんこういうのをきちんと言語化してルールに書いてやるといいんだろう。面倒ではある。
公共の言語と内輪の言語について考えていた。同じ言葉であっても内輪で使われるときと公共において使われるときとではまったく意味が異なる場合がある。より広く身振りや行為についてもそういう現象はある。いじられキャラは侮辱されているわけではないし、ツッコミは罵倒や暴力ではない。
このような現象を正しく分析し、擁護することはできるだろうか。確かに、(インターネットでよく指摘されるように、)いじられキャラは本当は傷ついているかもしれないし、何らかの権力勾配が反抗の意志をスポイルしているのかもしれない。公共的な言語にのみ拘るのであれば、そのように考えることが最も妥当で安全ということになるだろう。でも内輪においてはそうではないかもしれないし、当人たちにもよくわかっていないかもしれない。いずれにしても、内輪の外の人間は彼らの言語を共有してはおらず、どこまで行ってもそれは推測にしかなり得ない。このような構造において内輪の言語や行為をどう擁護できるのだろうか。すべきなのだろうか。
そもそも、「公共の言語」なるものは実在するのか?活字やインターネットの発達はそれを可能にしたのかもしれないという霊感はある。何年経っても誰が書いても変わらない書き言葉は、言語とは時間も空間も超えて共有できるものであるという信念を抱かせるだろう。さらに、SNSによる個人的な語りの一般化は無数にある内輪の言語を接続し、「公共の言語」として成立させることになったのではなかろうか。
カラスはけっこう賢いらしいという話を時々聞く。道具が使えるとか、物理法則を活用して目的を達成できるとか。カラスすげ〜という話なのだが、僕はどうにも不安を感じる。そこそこ賢いのに言葉が通じない存在が普通に街に暮らしている。その上害鳥扱いをしていてうっすらと敵対している。いや、敵対しているかどうかは重要ではない。ただ、そこそこ賢い(から内面と呼べそうなものはありそうに見える)のにその内面を想像し得ないような存在がいることが怖い。我々がカラスの内面を想像するときそれは常にカラスの皮を被った人間の内面の想像である。
しかし、これは別にカラスや犬猫に限った話でもなく、他者というものはすべてそうでもある。僕が他人の内面を想像するときそれは常に他人の皮を被った僕の内面の想像である。結局それは、他者全般に対する不安感と根源的には同じものなのだろう。渋谷のスクランブル交差点を見て、そのひとりひとりに心があってそれまでの人生があることを想像したときに感じる眩暈と吐き気、それがカラスにも向けられているに過ぎない。
寝ます。出掛けたからか今日はいろんなことを考えたね。