andante

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妻が友人から流れる季節の真ん中ってLINE来たんだけど何と言っていた僕より全然そういうの知ってそうなんだけど


妻が行きたいと言ったのでドライブに行ったといっても僕はPp.Dペーパードライバーなので助手をやるだけすくなくとも東京に住む限り僕がハンドルを握る日は来ないだろうけど教習所に通ったおかげで最低限の交通ルールや気にすべき点は覚えているからある程度有意義なことだったなと思うそれ以外にも僕の人生において大きな意味のある経験だったがそれはまた別の話
海鮮丼を食べたりガラス製品の直売店に行ったりした置く場所さえあれば買いたいものが山ほどあったが置く場所はないので買わなかった
片道1時間くらいで夕方になる前に帰って来れたこともあってそれほど疲れもせず楽しかった時々こういうのに行くのもいいかもしれない僕は運転をしないが

夜はClineをしばいていた何回目かのリトライでようやくこちらの意図が伝わった感じがあり一旦は満足できる仕上がりになったが手直ししたいところはたくさんあるたぶんこういうのをきちんと言語化してルールに書いてやるといいんだろう面倒ではある


公共の言語と内輪の言語について考えていた同じ言葉であっても内輪で使われるときと公共において使われるときとではまったく意味が異なる場合があるより広く身振りや行為についてもそういう現象はあるいじられキャラは侮辱されているわけではないしツッコミは罵倒や暴力ではない
このような現象を正しく分析し擁護することはできるだろうか確かにインターネットでよく指摘されるようにいじられキャラは本当は傷ついているかもしれないし何らかの権力勾配が反抗の意志をスポイルしているのかもしれない公共的な言語にのみ拘るのであればそのように考えることが最も妥当で安全ということになるだろうでも内輪においてはそうではないかもしれないし当人たちにもよくわかっていないかもしれないいずれにしても内輪の外の人間は彼らの言語を共有してはおらずどこまで行ってもそれは推測にしかなり得ないこのような構造において内輪の言語や行為をどう擁護できるのだろうかすべきなのだろうか

そもそも公共の言語なるものは実在するのか活字やインターネットの発達はそれを可能にしたのかもしれないという霊感はある何年経っても誰が書いても変わらない書き言葉は言語とは時間も空間も超えて共有できるものであるという信念を抱かせるだろうさらにSNSによる個人的な語りの一般化は無数にある内輪の言語を接続し公共の言語として成立させることになったのではなかろうか


カラスはけっこう賢いらしいという話を時々聞く道具が使えるとか物理法則を活用して目的を達成できるとかカラスすげ〜という話なのだが僕はどうにも不安を感じるそこそこ賢いのに言葉が通じない存在が普通に街に暮らしているその上害鳥扱いをしていてうっすらと敵対しているいや敵対しているかどうかは重要ではないただそこそこ賢いから内面と呼べそうなものはありそうに見えるのにその内面を想像し得ないような存在がいることが怖い我々がカラスの内面を想像するときそれは常にカラスの皮を被った人間の内面の想像である

しかしこれは別にカラスや犬猫に限った話でもなく他者というものはすべてそうでもある僕が他人の内面を想像するときそれは常に他人の皮を被った僕の内面の想像である結局それは他者全般に対する不安感と根源的には同じものなのだろう渋谷のスクランブル交差点を見てそのひとりひとりに心があってそれまでの人生があることを想像したときに感じる眩暈と吐き気それがカラスにも向けられているに過ぎない


寝ます出掛けたからか今日はいろんなことを考えたね