0622
朝起きたらいきなり閃輝暗点が出て、ハァーとなった。なんか気圧がいきなり下がったらしく、会社では他にも頭痛を訴える人がいた。僕の理解している範囲のメカニズムでは気圧と偏頭痛の間にどういう関係があるのかはよくわからないが、気圧のせいだと思っておくとなんとなく気分が安らぐ。
仕事は地味な作業をしてた。検証環境とステージング環境との差分をなくすという(地味だけどいざという時に効いてくる)作業。目処は立ってきたので明日は動作確認をしたい。
夜は焼肉に行った。行きつけの焼肉屋は、最近人手不足なのかレスポンスがあまり良くない。がんばってほしいなと思う。
教育虐待が話題になっていた。自分が子を持ったとしたら、やはり一番心配なのは自分がそれをやる可能性だ。僕もけっこう無茶な教育を施されてきたと思うが、幸か不幸か僕はそれに耐えてしまったし、その結果にそれなりに満足もしてしまっている。
僕の子はそうではないかもしれない。しかし、そうであるかもしれないのだ。その判断を正しくできる自信はないし、正しくできるまで待つことができるとも限らない。
親が子にできることとは何なのだろうかと、この数年はたびたび考える。とにかく環境を整えることは挙げられるだろう。適切な階段を用意することもそうだろう。しかし、それだけで良いのだろうか。良いとは?
子は僕ではない。しかし、その他大勢と同じような他者でもない。愛するということは、語られうる道徳を逸脱することではないか。誰かを、自分でも、置換可能なその他大勢でもないものとして扱うこと。一人称と道徳の中間地点。私の言葉でも、普通の言葉でもない言葉がなければ、そこに立つことはできない。