0415
ボンヤリしていた。回転寿司を食べたりプロンプトエンジニアリングをしたりした。あまり成果は出ていない。やはりCIがほしい。
テロリストの行為がきっかけとなって実際に社会に変化がもたらされた(し、それは一部の人にとって好ましいことだった)、という事実があったとして(以下ではそういう前提で書きますが個人的には積極的にそれを支持したいと思っているわけでもないです)、それをどう扱うべきなのか、意見が分かれている。無論テロリズムを肯定することはできない。容認もできない(ここは免責のために書きました)。しかし現にそうなったのであれば、そうなったこと自体は正しく記述すべきではないかと思う。それがテロリズム擁護に当たるのか、僕の考えではまったく当たらないのだが、そう考えない人も多い。
そういう人は、その因果関係について誰も公に語るべきでないと考えているのかもしれない。たとえば「人を殺してもいい場合もある」のような命題を公に口にすべきではないのと同じことだろうか。そのような観念の広まり自体が望ましくない社会を作ることになる、だから口にすべきではない、という主張はある程度理解できる。
(しかし、「人を殺してもいい」の例と違って、これは抽象的な命題ではなく現実にあった事態の記述であるのだから、話はもう少し複雑であるような気がする)
(「隣国の戦争で景気が良くなった」だとどうだろう。これを戦争肯定ととらえるかは人によりそうだ)
原因と結果とがあって、結果を肯定的に語るとき、それは原因を肯定していることになるのだろうか。ならないと思いたいが、そうは読まれないほうが普通なのかもしれない。
寝ます。また夜更かしだ