0613
月曜日。月曜日はいつも忙しい。なぜなのかはわからない。休み明けでぼうとしているせいなのかもしれない。会議もわりと多い。
夜はキーボードの設計をした。配線は一応完了したはずなので、あとは発注するだけだが、実装まで依頼するときはどうやればいいのか調べないといけない。まあ明日だ。
これのケースをどうするかはまだ考えていない。でも作ろうかな。ケースに関しては試作三号機は成功だったとはいえないから、改善を考えなくてはなるまい。
絵を描くAIと画像検索システムの何が根本的に違うかというと難しいところはある。そもそも検索というのは、計算によって可能性の空間の中から特定の領域を選ぶことであって、やっていることは生成と(スケールにおいて大きく違えど)それほど違いはない。ただまあ、一度も描かれたことのない絵は検索できないわけで、描かれたことのある絵たちによって「まだ描かれたことのない絵」の領域を想像する、それが検索にはできなくて生成で行われていることだ。
地球大気のシミュレイションをする気象庁のコンピュータが進化の果てに地球そのものになる、とは誰も考えないが、人間のシミュレイションをするコンピュータはどこかで人間になりそうに思われている。それはただ、地球になることは思考し得ないが人間になることは思考し得る、なんならなったことがある、というだけでしかないように思う。ヴィトゲンシュタイン的な言いかたをすれば、それは文法の問題ということになるだろうか。
計算機が人間に近づくと言うとき、我々は赤ん坊が大人になっていくことをおそらく想像している。あるいは、眠っていた人が起きて話し始めることを。計算機が人間の真似をしているとき、我々はそこに大人になりかけの赤ん坊や、寝ぼけた人ではなく、バットを振る機械とキャッチボールをすることを想像すべきなのだろう。超絶技巧によってバット1本で完璧な返球が可能になり、キャッチボールが成立しているように見えたとしても、それはバットでボールを打つ機械に過ぎない。
では、我々は?人間同士の会話はなぜそうなっていないとわかるのか?我々は通常そこに疑いを持たないから。