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仕事はなんだっけ。不具合対応などをした気がする。あ、そういえばリモート会議用のスピーカーマイクを試すにあたってレンタルをしたのでそれを少し試していた。まあ確かにこういうマイクが中央にあると会議室全体の音を拾えるのでよさそう、と思いつつ、実は比べてみるとmacbookのマイクもそこまで悪くないな、という気持ちになる。むしろボトルネックは会議室のネットワーク回線の不安定さのような気がする。まあ、実際に会議で使ってみて確かめよう。
「道徳を基礎づける」読んだ。道徳は基礎づけられなかった、というか、西洋の伝統が道徳の基礎づけだと思ってきたものがいかに神様を密輸入しただけだったかを中国思想の観点から明らかにするような話だった。中国思想のことは全然知らなかったのでそれ自体興味深かった。古代中国には「自由」という概念がないので、「利己的」「利他的」という対立もなくて(まったくないというわけではないようなのだが)、だから道徳的行為(特に利他的行為)を基礎づけるにあたって苦労することなんかなかったんですね。「道徳的に振る舞うといいことがあります」ってこともなげに言えちゃう。それは行動の根幹に「自由」つまり神との対立がなくて、結局世界はあるようにしかない、という感覚がおそらくあり、利己的行為と利他的行為とを区別する必要がなかったんだろうと思う。ただ、人間はどうしても「忍びざる反応」として利他的行為(と西洋では呼ぶもの)をしてしまうし、その感覚を拡充することで人は聖人に至ることができる。(一方西洋ではここをなんとか利己的行動と対比させた上で普遍的原理と関連付ける必要性に駆られたし、その結果としてカントはおそらく神を密輸入した)。
まあ正直全部はよくわかってないんですが。あと孟子が結局最終的には退却したのもおもしろかったですね。そう、悪というものを結局単なる道徳性の欠如として扱う限り、マジモンの悪意について説明できることはないんですが、世の中にはマジモンの悪意は実在するし、そうなると孟子ももしかすると西洋的な二分法、内面と他者、という構図をとる必要があったのかもしれない(「やっていき」がマジモンの悪意を生むという考えかたは受け入れがたかったのだろう、だって悪意ってあるもんな)。ふーんという感じだ。
それにしてもやっぱり道徳哲学について考えるならニーチェとカントくらいはさらっておかないとだめっぽいよね。カントはまあ最悪例の定言命法で要約できちゃうかもしれないが、ニーチェが実行した取り返しのつかない価値観の顛倒についてはそれなりに流れを把握しておく必要があるだろう。ふーむ。
明日は自宅で仕事。でもその前に病院行かなきゃ。なんか夜更かししちゃったけど。寝る。