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昨晩はtensorflowのチュートリアルを読んだりしました。
お昼から仕事。PythonとCaffeで書かれたモデルのコードを追いながら構成を理解してゆく作業。論文は一応読んだから理屈はもうわかっていても、実装はまた別のわかりが必要とされる感じがあって骨が折れます。Caffeのモデル定義はレイヤとBLOBに同じ名前をつける慣習がある?らしくしばらく悩んだ。
あとはRasPiのセンサ入力をHTTPで送るコードを書きました。せっかくSwift入れたしSwiftで書きたかったけど、生のsocketとか触ったことないし、libdispatchも使えなくてNSThreadだけでどうこうするのはつらそう。今日のところはrubyで済ませておきました。rubyはいつになってもうろ覚えのまま書いているせいで、初歩的なところではまったりしました。
就活、競争倍率が高いというだけで、謎の価値観に最適化しないといけないみたいな雰囲気が出ているのが本当に不健全だと思うし、雇う側までそんな価値観に最適化させないといけないみたいな雰囲気があるのではと思う。本当に不健全だと思う。悲しい風習だ。
そう考えると大学入試が基本的にはペーパーテストなのは良いことなんだろうと思う。そうでなかったら、高校生もなんだかよくわからない祈りの動きを競い合ったりするのだろうか。
コミュニケイションにおいて、「気持ちを考える」というのはまったく無意味な行為であるように思える。「気持ちがわかる」という現象は確かにある。しかし、それは「気持ちを考える」ことが可能であることを意味しない。気持ち計算というものが機械的に行えない以上、すでにわかっているものの組み合わせしか、想像することはできない。
きっと必要なのは、表明し、問いかけることなのだ。もちろん言いたくないこと聞きたくないことというものは存在し、それを察し察されることは存在する。それはなにかの能力というよりは、「ちょうどよかった」というような、偶然と必然との中間に浮かぶようなものに近いのではないかと思う。だから、それがあったときは、安堵の溜息とともに、感謝しなければならないだろう。