andante

2016-03-23

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昨晩はtensorflowのチュートリアルを読んだりしました


お昼から仕事PythonとCaffeで書かれたモデルのコードを追いながら構成を理解してゆく作業論文は一応読んだから理屈はもうわかっていても実装はまた別のわかりが必要とされる感じがあって骨が折れますCaffeのモデル定義はレイヤとBLOBに同じ名前をつける慣習があるらしくしばらく悩んだ

あとはRasPiのセンサ入力をHTTPで送るコードを書きましたせっかくSwift入れたしSwiftで書きたかったけど生のsocketとか触ったことないしlibdispatchも使えなくてNSThreadだけでどうこうするのはつらそう今日のところはrubyで済ませておきましたrubyはいつになってもうろ覚えのまま書いているせいで初歩的なところではまったりしました


就活競争倍率が高いというだけで謎の価値観に最適化しないといけないみたいな雰囲気が出ているのが本当に不健全だと思うし雇う側までそんな価値観に最適化させないといけないみたいな雰囲気があるのではと思う本当に不健全だと思う悲しい風習だ
そう考えると大学入試が基本的にはペーパーテストなのは良いことなんだろうと思うそうでなかったら高校生もなんだかよくわからない祈りの動きを競い合ったりするのだろうか


コミュニケイションにおいて気持ちを考えるというのはまったく無意味な行為であるように思える気持ちがわかるという現象は確かにあるしかしそれは気持ちを考えることが可能であることを意味しない気持ち計算というものが機械的に行えない以上すでにわかっているものの組み合わせしか想像することはできない
きっと必要なのは表明し問いかけることなのだもちろん言いたくないこと聞きたくないことというものは存在しそれを察し察されることは存在するそれはなにかの能力というよりはちょうどよかったというような偶然と必然との中間に浮かぶようなものに近いのではないかと思うだからそれがあったときは安堵の溜息とともに感謝しなければならないだろう

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昨晩はたいしたことをしなかったようなtensorflowの雰囲気はわかってきた気がするけどコードを一行も書かずにそんな風に思うことの愚かさよ


お昼から仕事Faster R-CNNの理解がだいぶ論文とコードとで一致してきましたあとは具体的な学習プロセスを理解して再現を試みればこの方向はとりあえず打ち止めでよいでしょうまあ実際に教師データを蒐集するという難題があるのだけど

今夜はtensorflowでLSTMを書くにはどうすればいいのか調べようかな


痛いの痛いの飛んで行けというまじないがあるが僕の痛みは常に僕の痛みなのであって他人の痛みではありえないのだから仮に痛いのが飛んでいったとしても飛んでいった先が痛むというだけなのではないだろうか


気持ちを考える気持ちを慮るなどの文章に表れる気持ちというのはたとえば不利益を被ったら怒っても良いというようなルールに従う概念ゲームの駒のようなものでこのの中の色彩めいたものとはまったく関係がないのだろうと思う野球の点数にも似ているそしてこのような指摘はナンセンスである野球の試合中になぜ点数の高い方が勝ちなのだろうかと問うような無意味さ