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がっかりしています。
ひさびさに四限に出ました。この授業単位取れるのかしら。出席すくなくてもレポートを書けばなんとかなると高をくくっているのだけど。
δからメール。土曜日に会う。
水曜日にでも髪を切りましょう。そういう種類の楽しみさ、不思議なものです。
今日僕は僕がほんとうにつまらなくなってしまったのだと知りました。そんなときがいつか来ると僕は前から知っていたのだけど、ほんとうに来るとは思っていなくて、けれども僕のこの数日のpostを眺めていて、ああぜんぜん朗らかな気分のものがないや、と思って、だからこれがずっと恐れていたその時なのだとわかりました。僕はほんとうにそうなったらTwitterをやめよう、と思っていたけど、でもきっとやめないのだと思います。なにかを変えるのは少なくないコストを必要とします。
昨日から断続的にしょんぼりしています。僕にとっての今年はほんとうにひどいものだった。事象Σ(僕はこのことをここに書くべきかずっと悩んでいる)もあったし、次々と明らかになってゆく己の社会不適合に何度も心を折られました(そろそろ月に届くでしょう)。健康状態もずいぶん悪くなりました(でもすこし外食できるようになったのは良くなったと思います)。将来はいまだに不透明で、就職活動はいよいよ恐ろしいし、博士課程に進学することはもうほんとうに破滅の予感しかない(僕はたぶん進学しても「なんで君は博士過程にきたの」と言われるようなふるまいしか出来ないと思います)し、2014年以降の人生が未定義で恐ろしい。
僕はもうずっと前から飛び降りてしまって、いまはただ地面にぶつかるまでの時間を過ごしているだけなのだと思います。いずれ死ぬ。かならず死ぬ。そしてきっとそれは惨めなやりかたで死ぬ。もうそのようにしか思われないのに、どうして今日を生きなくてはならないのか。不幸を積み重ねて、そのぶんをいつか誰かが返してくれるのか。
ああやはり死ぬしかない。だけど死にたくなんかないんだ。いつか僕には約束された幸福が降りてくる、そうでなくてはならないんだ、そんなものを作り出したのは誰だ僕だ死にたくないからそんなものをつくっておいてそれを理由に死にたくないなんておかしい。死にたくない理由は余所にあるはずだ。たぶんそれは、状況判断の失敗。なくしたものを、いつか取り戻せると思い込む誤謬。それはある場合には正しい、損失を回復しようとする動きにつながる、だから人間にはそれが必要だった、だけど、永久に失われたものが戻ってくると期待するのは、間違っている。それに期待して今日を生きるのは、間違っている。
間違っているのに、僕はそれをやめることも死ぬこともできない。
「死にたい」ではなく、「死ぬしかないのだと思う」。これはもはや、肉体を殺すか、精神を殺すか、という話でしか有り得ない。
昨日よりも喉の具合がよくなくなっている感じがします。痛い。あとすこし切れているみたい。論文をすこし読んだけど、あまり発表には使えなさそう。こんなことばかりしてだらだらとするのもよくないですから、スライドの作れる部分は作り始めましょう。学会の予稿も必要だし、イントロはいくらか書けると思います。
明日は二限とバイトです。そういえば今日奨学金を投げ込んでいるほうの銀行口座を見たらけっこう残高があったので、来年も家賃くらいは出せそうです。それ以上はちょっとよくわかりません。バイトはやめられないでしょうね。