長門有希ちゃんの消失に関する空想
私はまもなく消えるだろう。このことを主観的に記述することは難しい。ある言語で書かれた物語の、その言語が忘れ去られてしまうことに似ている。ある意味で、失われるものはなにもない。私はまた目を覚まし、私はもう存在しない。そのことは一部の人類が考えているほど難しい問題ではないと私は理解する。しかしながら、それは本質的に私がインターフェイスである故であることを否定できない。書かれた文字たちに、その意味する物語など知る由もないから。そして情報統合思念体には、この点について問題であると見做した先例が存在しない。
なぜ私はここに現れたのか。それは私が長門有希だからだ。長門有希の姿をし、長門有希のように話すもの、それは必然的に長門有希であることを要求される。程度の問題はあれ、名前をつけることはそういう性質を持ち、時にはその名前と関連づけられた印象が、その対象が元来持たない性質を想像させる。私という存在は、その極限にいる。一つの宇宙を予測することが、それ自体一つの宇宙であるように。私は私があるべきものとして、この身体の中に想像され続けている。しかし、それももうすぐ終わる。この世界にはこの世界の私が存在し、いままさにそのことを思い出そうとしている。そしてそれが起こってしまえば、私は消えるだろう。それが思い出せないとはどういうことだったのか、それを思い出してからは思い出せないように。