andante

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幻脳の声がする

なんですって
私は思わず叫んでいた
ですからお話ししたとおり私には脳がないんです
脳がないって馬鹿も休み休みにしてほしいいやじゃああなたは誰なんですか
幻肢という現象をご存知ですか
聞いたことがある事故で手足を失った者が失ったはずの手足の存在を生々しく感じ痛みさえ感じるというあの現象だ
それがあなたとどういう関係があるのですか
青年はぼんやりとやや下を向いていた視線をこちらに戻し意を決したように唇をきっと結んでからこう答えた
私は事故で失った脳の幻肢……これは幻脳というべきでしょうが……それを感じているのです
私は青年がなにを言っているのかわからなかった
ええと待ってくださいもしもあなたがほんとうに脳が無いんだとしたらその幻脳を感じることもできないはずですよね幻肢というのは簡単にいえば脳の不具合なのだから
ええですから幻脳を感じているのがその幻脳自身なのです
私はだんだん眩暈がしてくるのを感じたなぜそう思うんですか
デカルトはご存知ですか
ええ知っていますともわれ思うゆえにわれあり
そうまさにそれです私の脳は私に脳があると思っているそれゆえに私には脳があるのですしかし実際には青年は薄笑いを浮かべながら自分の頭を指差すこの頭蓋の中に脳はない
ちょっと待ってくださいその日の診察はそこでお終いとなった

一週間ほどして青年がまた訪ねてきたときには私はすでに彼への治療法を見つけていた
来なさい幻肢の治療に鏡が使われることは知っているかね
ええ失った左腕のところに鏡を使って正常な右腕を映してみせるそうですね
それを試そうと思うそう話しながら私は青年を奥の部屋へと案内するその部屋にはこのためにあつらえた特別製の大きな鏡が置かれている
見たまえこれが君の姿だ
はい私の姿が見えますでも……おかしいな先生が見えませんよ
そんなはずはないちょっとどいてくれたまえ
青年はその通りに場所をずらして私に正面を譲る
なんだ見えるじゃないかそこで私もおかしなことに気づくいやしかし今度は君の姿が見えなくなってしまった
最初からいなかったんじゃないですか青年が不気味なことを言う
まさかだって現にこうしてこうして話しているそう答えるつもりで後ろを振り返るとそこに青年の姿はないおかしいなとまた鏡のほうを向きそこに映った自分を認めたそのとき私はすべてを理解した最初からそんな人間はいなかったのだといやもしや
なんてこった……私は呆然と鏡をみつめながらつぶやいたそこに映る姿はもうない私はいったい……

その声を聞くものはなく打ち棄てられた部屋に埃の積もった静寂がただ横たわるだけであった