幻脳の声がする
「なんですって?」
私は思わず叫んでいた。
「ですから、お話ししたとおり、私には脳がないんです」
「脳がない、って」馬鹿も休み休みにしてほしい。「いやじゃああなたは誰なんですか」
「幻肢という現象をご存知ですか」
聞いたことがある。事故で手足を失った者が、失ったはずの手足の存在を生々しく感じ、痛みさえ感じるというあの現象だ。
「それがあなたとどういう関係があるのですか」
青年はぼんやりとやや下を向いていた視線をこちらに戻し、意を決したように唇をきっと結んでからこう答えた。
「私は、事故で失った脳の幻肢……これは幻脳というべきでしょうが……それを感じているのです」
私は青年がなにを言っているのかわからなかった。
「ええと、待ってください。もしもあなたがほんとうに脳が無いんだとしたら、その幻脳を感じることもできないはずですよね?」幻肢というのは簡単にいえば脳の不具合なのだから。
「ええ、ですから幻脳を感じているのがその幻脳自身なのです」
私はだんだん眩暈がしてくるのを感じた。「なぜそう思うんですか?」
「デカルトはご存知ですか」
「ええ、知っていますとも。われ思う、ゆえにわれあり」
「そう、まさにそれです。私の脳は私に脳があると思っている。それゆえに、私には脳があるのです。しかし実際には、」青年は薄笑いを浮かべながら自分の頭を指差す。「この頭蓋の中に脳はない」
「ちょっと待ってください」その日の診察はそこでお終いとなった。
一週間ほどして、青年がまた訪ねてきたときには、私はすでに彼への治療法を見つけていた。
「来なさい。幻肢の治療に鏡が使われることは知っているかね」
「ええ。失った左腕のところに、鏡を使って正常な右腕を映してみせるそうですね」
「それを試そうと思う」そう話しながら私は青年を奥の部屋へと案内する。その部屋には、このためにあつらえた特別製の大きな鏡が置かれている。
「見たまえ、これが君の姿だ」
「はい、私の姿が見えます。でも……おかしいな、先生が見えませんよ」
「そんなはずはない。ちょっとどいてくれたまえ」
青年はその通りに場所をずらして私に正面を譲る。
「なんだ、見えるじゃないか」そこで私もおかしなことに気づく。「いや、しかし今度は君の姿が見えなくなってしまった」
「最初からいなかったんじゃないですか」青年が不気味なことを言う。
「まさか、だって現にこうして」こうして話している、そう答えるつもりで後ろを振り返るとそこに青年の姿はない。おかしいなとまた鏡のほうを向き、そこに映った自分を認めたそのとき、私はすべてを理解した。最初から、そんな人間はいなかったのだと。いや、もしや。
「なんてこった……」私は呆然と鏡をみつめながらつぶやいた。そこに映る姿はもうない。「私はいったい……」
その声を聞くものはなく、打ち棄てられた部屋に、埃の積もった静寂がただ横たわるだけであった。