diary

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また日記を書いている間にセッション切れで全部消えました。これやっぱPHPの設定を見直さないとだめだと思うんだよな。ウーン、真剣に考えよう。まあ理想的には自動下書き保存などがあるといいんだけどさ。
とはいえ今日はいろんなことを書くつもりだったし書いていたのでなんとか再現を試みます。


仕事の話から。まあ仕事の話自体はいいや。そうそう、先日唐突に降りてきた「VALUE」について我々に共有する会が行われることになりました。ただ、その時までに、その「VALUE」に基づいてどのような評価基準を設ければよいかについて考えてこいという宿題が出されています。
こんなのちゃんちゃらおかしいでしょう。もちろん、会議の前に準備をすること自体はとても健全で正しいことだとは思います(というかこの会社あんまそういうことしないよね、全員アドリブみたいな会議ばっかり)。でも、僕らに対してまさにその「VALUE」の意味と背景を説明する、という会議の前に僕らがそれについて考えることは不可能なんですよ。不可能なことを平気でアジェンダに書いてくるから怖いですね。不可能なのであんまり真面目にやりませんが。

そもそもこの話全体が、トップダウン方式とボトムアップ方式の悪いところの融合みたいな感じがしていて嫌です。トップがなんか勝手にスローガンを掲げる(しかもそれはおそらく「ビシッとしたスローガンを掲げるとカッコイイ」みたいな理由なわけです)。でもそれが具体的にどのような行動に移されるべきかはボトムの人間が考えろ、というわけです。知らんよそんなこと。しかもどうせこのことを「みんなの意見を尊重して決めました」みたいなアリバイ作りに使うつもりでもあるんだろう。知らんよそんなこと。誰も反対しないからって全員が賛成だと思うのはnaïveすぎですよ。
どうせ取締役陣が現在の僕らの事業部の直面する課題とか、どういう改善をしていきたいかとかなんかに興味も知識もないことはわかってるんですよ。それ自体はそれでいいとさえ思う。でも、知らないんだったらそっとしておいてほしい。僕らは僕らでやっていくんで。そのくらいの距離感が健全だと思いません?


「いつもここから」というお笑いコンビが一昔前にいて、「悲しいとき」というネタ、まあちょっとシュール系に寄せたあるあるネタみたいなやつ、をやっていたのですが、その冒頭はいつも「誰かが死んだとき」だったんですよね(まあ僕はこの時期あんましテレビを見させてもらえなかったのでこのあたりの印象はほとんど本屋で立ち読みした本なんですが)。これ自体はおそらく、その後に続くしょうもない「悲しいとき」との対比を強調するためにあるだけのやつなんですが、これを思い出すたびにちょっと考えることがあるんですね。
誰かが死ぬのって、もちろん基本的には悲しいんですけど、人の死というイベントは、同時にあまりに多くの意味を纏っていると思うんですよ。なんなら「身近な人が死ぬ」というだけで小説が書けるだろうし映画も撮れるだろう。そのくらい、死はすでに意味にがんじがらめにされている。もしかすると、死を悼む気持ちにさえ、僕たちは正解不正解をつける社会に生きているかもしれない(でしょう?)。でも、このネタは、ここでその他のしょうもない「悲しいとき」と並列に列挙される死は、そうではないんですよね。誰のでもない、ただただ抽象的な人の死。それはただただ抽象的に悲しい。
死をただの悲しい出来事だと思うことは、それもまた、難しいことだと思う。先に述べたように、僕たちは死にあまりに多くの意味を紐づけてきたから。でも、このネタを思い出す瞬間にだけ、そういえば人が死ぬってのは単に悲しいことなんだったな、そうだな、悲しいな、って思うんですよね。僕はね。


今夜はもうすこし本を読んで寝ます、とさっきは書いていたんだけど、書きなおしてしまったのでもうだいぶ遅くなってしまったなあ。まあでもおもしろい本なのでちょっとだけ読んで寝ようかな。やれやれ。