0727
昨晩はμ'sのキャラクタ画像の蒐集手法について検討していたけど、safebooruだけじゃ思ったほど数がない。あと単体で描かれているものも意外と少なくて、じゃあ分離はどうするんですかという話になる。そのままsemisupervised classificationに雪崩れ込み……はしないと思う。うーん、どうしよう。
仕事はいろいろ調整。Batch Normalizationのスケーリングをなくしたり初期値をよくあるヒューリスティクスに従って変えてみたりしたら、分布の類似度はぱっと見で向上したような気がするんだけど、それで結果が良くなるのかはよくわからない。
あとなんとなくやってみたかったのでZabbixで計算機のコンテナを監視できるようにしてみたんだけど、ずっと計算してるだけのコンテナを監視しても別にいいこと何もなかった。残念。
たとえば、ものすごく綺麗なものを見て、それを絵に描きたいと思うんだけど、手許には色鉛筆が四色しかないとしたら、それでもなんとか描こうとする人もいるかもしれないし、実際にそれで見事に描ける人もいるかもしれないけれど、僕はそんな危険は犯せないなと思う。青色で塗っておいて、本当はこんな色ではないんだけど、なんて註釈するのは馬鹿げているし、そのこともいずれ忘れて、こんな色だったんだと思い込んでしまうだろう。僕はそんな危険は犯せないなと思う。
何かを言葉にするのは、多かれ少なかれそういうことだろうと思う。そしてここでは、僕はそれでもなんとか言葉にしようとしてしまう側の人間で、そうして出来上がった全然違うもので、上書きしてしまう側の人間なのかもしれないと思う。(だったら黙って風化していくのを見ていたほうがいいっていうのか?)
ぜんぜん関係ないけど(だからこの上には罫線があるのですが)、
ずっと昔、太陽系の惑星の絵のポスターを買ったとき、僕と母とでそれを見ながら絵を描いたことがあった。僕はなんというか、教科書的な太陽系の模式図を描いたんだけど(今思うとこれはエジプトの壁画を連想させる、あるべきものをあるべき姿のままに。)、母は緑とか赤とか何色も使って木星を描いていた(木星はそんな色じゃないよと僕は(惑星博士だったので)言った)。僕がさっさと九つの惑星を描き終わってからも、母はずっとその絵を見つめていたのだけど、それはたぶん、絵を描くことを志して諦めた自分について考えていたんじゃないかと思う。
母は数年前からまた絵を描きはじめている。いまの僕とそうは変わらない年齢だった母は、自分がまたそうすることになるとは思っていなかったかもしれない。(僕もまた、いつか何かを再び始めることがあるのだろうか?あるいはぜんぜん別の何かを?)