0711
昨晩はちょっとfastlaneをいじったのと、あと数学をしました。
今日もだいたい似たような感じです。あと「のんのんびより」の一期一話二話を観ました。でもいまのところ二期一話の偉大な適切さには及ばないかな。まあでも、安心して観られる感じでよいです。
なんだか風邪っぽい感じが出てきてしまいました。なぜこうも入れ替わり立ち替わり具合が悪くなるんだ。
昨晩はちょっとfastlaneをいじったのと、あと数学をしました。
今日もだいたい似たような感じです。あと「のんのんびより」の一期一話二話を観ました。でもいまのところ二期一話の偉大な適切さには及ばないかな。まあでも、安心して観られる感じでよいです。
なんだか風邪っぽい感じが出てきてしまいました。なぜこうも入れ替わり立ち替わり具合が悪くなるんだ。
昨晩と今日とで「のんのんびより」一期を観ました。ところでちょうど今日の夕方からニコニコ動画で一挙放送があったのですね。まじか。数百円損した。まあいいや。
やはり全体的に適切だなあと思います。特に冗談のセンスが安心して観ていられる。とはいえ、やっぱりいまのところ二期一話が最高というか、やはりこれが決定的だったなあと思います。二話にも期待。
あと「紙の動物園」を読んでいます。あまりSFって感じはしないけど、よくできている。
さて、微妙に具合が悪い状態が続いていますが(単に暑くなってきただけか?)、明日からまた仕事です。
昨晩は「紙の動物園」を最後まで読みました。中国の人のSFなんだな、という感じの作品がいくつかあったのはよかったです。
仕事は暇だったので勉強会の準備をしました。あとひさびさに閃輝暗点が出たので難儀しました。頭痛はそれほどひどくなかったけど。
今日は気力がないので書くことがありません。今夜は本を読むのと、数学もちょっとやると思います。
こういうことを繰り返し思うのは単に僕がちょっとしたうつ状態にあるというだけなのかもしれないのだけど、やっぱりもう人類は意識とか消してしまって文明なんかやめにしてみんなで寝ようよという気分が強くあって、そんなにエントロピーを減らすのが大事ならそういうのに効率的な機械とか作って勝手に宇宙の塵を集めてたらしいじゃない、それでときどきすごく複雑な数学的構造を反映した21cm線パルスを飛ばしたりして、余所の星のSETIみたいなのに観測されたりするの(「WOW!」)。もうそれでいいじゃん、なんだって意識なんてもの飼ってなきゃいけないんだよ、こんなの進化の途中でちょっと便利そうだからって生えてきただけじゃんか、それがこんなにしんどいんだから、そんなのはやめにしてさ。だってもう2015年なんだから、こんなポンコツに問題解決を任せなくたって機械のほうが上手くやってくれるよ、きっと。うん、やめやめ。こんなのやめにしよう。ね?
僕はもうだめだ、僕はもうだめなんだと繰り返し思う。客観的には僕はまだだめじゃないんだろう。なんといっても仕事があって食うのに困ってないし、必要だと思うものはだいたい手に入る。だから僕はまだだめじゃない。頼めばそう教えてくれる人だってきっといるだろう。でも、僕はもうだめなんだとしか思えない。こんな人生をあと何十年も続けて、それだけでも気が滅入るのに、僕はきっとこれからもっともっと弱くなってゆく、元気でなくなってゆく、それはもうどうしようもなく真っ暗だと思う。真っ暗。僕はもうだめだ。僕はもう真っ暗。もうだめなんだと思う。もうなにもする元気がない。そんなことはないだろう、毎日仕事にも行っているし時々本も読む。僕はもうだめだ。そんなんじゃないんだよ、僕はもう僕がそれらをなんのためにそうしているのかよくわからない。よくわからないという想いに足をとられそうになる。真っ暗だ。なぜ僕はこんなことになってしまったんだろう。理由ってなんだろうか。単に僕がそういう人間だったということ、僕がそうなるままに任せていたということ、そんなことをわざわざ理由と呼ぶのなんて、ばからしい。真っ暗だ。僕はもうだめだと思う。なぜかわからないけどそんな気ばかりがする。そんなことばかり考えているうちに僕はもうだめになってしまうと思うけど僕はもうだめだと思うのをやめられない。実際もうだめということにしたいと思う。僕はもう諦めたのに、試合だけが終わってくれない。そんなのって聞いてない。僕はもうだめなのに。僕はもう真っ暗なのに。こんな風に弱音ばかり吐いているのは情けないみっともない姿だと思うけど、僕はもうだめなのだし、僕はもうだめなんだから、仕方ないと思う。僕はもうだめだ。僕はもうだめだとこうして書いているあいだがいちばん心が安らぐ。落ちつく気がする。僕はもうだめだと思う。なぜそう思うかというと僕はもうなにもする気になれないからです。仕事だってちゃんとしているしときどき本も読むけれど、そんなことをしているのは単にそうでなければいけないような気がするからなので。僕はもうだめなんだと思う。学校に通うのもこんな感じだったと思う。本当は行きたくなんかなかったけど、休むのはもっと勇気のいるしんどいことだったから、僕は学校に行ったと思う。いまもそんな感じだ。だから僕はまだあきらめてはいないのかもしれない。ちゃんとこうして生きていればきっといいことがあるってまだ思っているのかもしれない。だから仕事にも行くしときどき本を読む。本を読むと僕はだめじゃないことをできているような気がする。でもそんなのがときどきひどくむなしい。僕はもうだめだと思う。真っ暗になるんだ。ねむたくなってきた。でも眠ると明日がくるし、明日は明後日につながっている。ねむい。僕はもうだめだ。もうおしまいなんだ。僕はもう二度と幸せな気持ちにはなれないと思う。僕がそう教えてくれる。僕はもう二度と幸せな気持ちにはなれないし、そもそもそんな気持ちになりたいなんてもう思わないんだって教えてくれる。僕はそうだと思う。僕はもうなにもしたくない。僕はもうだめだ。もうなにもしたくない。もうなにもしたくないしなにも思いたくない。助けてほしいともあまり思わなくなってきた気がするんだ。もう手遅れだと思う。僕を助けてくれようとする人はみんな最後にはさじを投げてしまう。僕はそうだと思う。それにもう僕は助かるとかそういうのもよくわからないし、なんか考えたりしなきゃいけないのかな、それは面倒だと思う。もうなにも考えたくない。ひんやりしたコーンスープがのみたい。
ランダムに記号列を吐き出す部屋を用意して、その部屋に向かって話しかける。部屋はランダムな記号を吐き出すので会話にならないようだが、実はそのやりとりが意味をなすものであるように言語の側がアップデートされてゆくので、会話は成立しているとも言える。このとき部屋の中の人(いたの?)はこの言語を理解しているとは当然言えないが、ではいったい何がどう成立していたというのか。
昨晩はだめだめだったので結局なにもしないで早めに寝ました。だめだめだ。だめだめなのは今日もあまりよくなっていないけど、昨日ほどぐんにょりしてはいないと思う。でもだめだな。もう意識とかやめちまおうぜ。苦しいばかりだ。
仕事は暇。不具合対応など。FacebookのShare Extensionには不具合があってハングアップする気配がある。そこで死なれるとこちらとしてはどうしようもない。どうしようもないのでどうもしないけれど。
あとfastlaneのカスタムアクションをrubygemにできないか試みていましたがうまくゆきませんでした。単に僕がrubygemsに慣れてないからかも。gemspecとか書くの初めてだし。まあこの路線はしばらくいいや。(そのうち誰かが先鞭をつけてくれないかな)それよりJenkinsに証明書をパスワードをインポートする機構のほうが重要そう。とりあえず証明書は既存のをプラグインから取れないか試してみようかしら。そのうち。
明日は会社の前に病院にゆきます。定例。今週はだいぶ具合よかったけど、これは喜んでよいのかしら。でも前も一回そうなってからだいぶひどくなったしな。うーむ。
あと微妙に風邪気味。またか。
追記。そういえば冥王星探査機が写真を寄越したそうですね。幼稚園くらいの僕に見せたら大喜びするかもしれません。あの頃は冥王星ってぜんぜん写真がなくて、図鑑に載ってるのはアメダスみたいなガタガタの円形か想像図かだったのでした。まあ、写真があったからって今の僕はどうとも思わないですけど、あの頃はやっぱり、写真がないことが「悔しかった」みたいなところ、あったと思うのです。同じ太陽系なのに、一つだけろくろくわかっていないことが。まあもう惑星じゃないからいいんですが。
あ、でも、なにかの本に描いてあった、冥王星から大きなカロンが昇ってくる想像図はかっこよかった気がするな。どうでもいいけど。
昨晩は数学をすこし、勉強会準備をすこし、読書をすこし。
仕事の前に病院にゆきました。状況はあまり進展なし。次回は三週間後ですがひどくなったら早めに来るように、とのこと。
待合室で場の量子論の教科書を読みました。$SU(3)\times SU(2)\times U_\mathrm{Y}(1)$対称性。$SU(3)$部分はゲル−マン行列を基底とする8自由度のグルーオン場、$SU(2)\times U_\mathrm{Y}(1)$部分は電弱相互作用を記述していて、$SU(2)$部分が$W^\pm$, $W^3$、$U_\mathrm{Y}(1)$部分が$B$。で、これらは対称性から質量項を禁止されていて(特にクォークとレプトンは左巻きと右巻きとで変換性が違うので質量項で混ざることができない)、それは自発的対称性の破れを待たねばならないのだけど、それはそれとして、この$SU(2)\times U_\mathrm{Y}(1)$部分が部分的に破れてゲージ対称性$U(1)$が残り、$W^3$と$B$の線形結合の片方が$A$、もう片方が$Z^0$になるそうです。残った対称性を持つ$A$は質量ゼロの光子で、破れた部分$W^\pm$と$Z^0$は質量を獲得する、とかなんとか。ふーむ。あまり真面目に計算を追ったりしていないから、なんだかふよふよした感じだ。こんな理解でええのかしら。
仕事は暇。不具合対応と次バージョン申請。あとGoogle Spreadsheetのスクリプトをちまちまいじったり。最近は二週に四日くらいこういう暇があるような気がする。うーん……。
ところでのんのんびより二期二話を観ました。仕掛けがよくわからないのだけど、変奏曲としてもう一度やるつもりなのかしら。なぜそんなことを。それより一期の頃からこのための準備があったのだろうか。フムン。
お話はよかったです。ループものの醍醐味みたいなものをすこし感じました。
活字文明がここまで発達したのだから、もう言葉の意味なんてそうそう簡単には変わるまいと漠然と思っていたのだけど、「エゴサーチ」を単に検索の意味で使う人がいるらしいとか、「デマ」が完全に法螺話と同一視されつつあることとか、そういうのを思うとまったく誤りだったなあと思う。たぶん、大勢の人は僕がそうであるほどに言葉の意味なんか気にしてないのだろう。みんなもっと言葉を大事にしたほうがいいと思う。我々にはこれしかないんだよ?
言葉の意味で思い出したのだけど、「変だ」という言葉には「珍しい」という意味と「狂っている」という意味があって、この二つが同じ言葉で指されているのは、人間がそういうヒューリスティックを使って生きているという話なのかなあ、と思いました。こういう混乱をていねいに解きほぐして生きてゆきたいですね。
さて、この数日具合がよかったのですが今日はちょっと悪くなったかも。続くようならまた病院にゆかなくては。あと風邪気味っぽいのも継続中。はあ。
追記。高校生の時思いついた思考実験を思い出したので。
計算機のメモリ配列上にシミュレイトされた世界・その中に住まう意識を考える。この計算機は完全に決定的にシミュレイション時間の各ステップを進めてゆくのだが、ある一つのステップの計算中に無限ループが発生し、次のステップが永遠にやってこなかったとしたら、そこに生きている意識体はどんなことを思うか。
で、これを僕は当時提出するだけでなにも考えていないのだけど、これはエデンの園配置の逆バージョンになっていることに今日気づいた。エデンの園配置には過去のパターンが存在しないが、この計算機には未来のパターンが存在しない。それは「内側」から見たらどういう意味か。「順列都市」では、エデンの園配置は、そのパターンが外の世界からの介入であることを証明するために(そんな必要があるかはともかく)使われていたが(たぶん)、ではこの逆エデンの園配置は、世界の外側に出るために使われるのではないか。つまり、もしそのステップを越えても意識が続いているのだとしたら、それは計算機の外のどこかで計算されている以外にあり得ないのだから。
ほんとに?
昨晩はJenkinsプラグインを作る手順を思い出していました。BuildWrapperにsetUpとtearDownを書けるので、そこでキーチェインを作って壊してすればよさそう。キーチェインは、KeyStoreなるクラスがp12を扱うので一旦ファイルにエクスポートしてからキーチェインに追加、かな。ただUIが一番難しくなりそうな気配がある。うーむ。
仕事は暇。次バージョンの計画を議論するも、前のバージョンの施策の結果がまだ出ていないのであんまり。
ところでなんだか急に具合が悪くなりました。体温もちょっと高め。なんだこれ。とりあえず明日病院に行こう。今夜は早く寝たい。髪が乾いたら寝よう。
会社の前に病院にゆきました。また悪化傾向っぽいので薬が戻りました。うーん、長引く可能性があるとは思っていたけどこの段階でというのは予想外だ。うーん。
仕事は暇。勉強会準備など。
ところで具合が悪いのに会社の飲み会に遅くまで残っていて、これは完全に判断ミスでした。お酒は飲んでないけど体温上がってしまった。計ったら微熱程度だったからまだマシだけど。でもたいへん疲労している。完全に判断ミス。しかもテンション低いままだったし、完全にいるだけ無駄だったけど、まあ愚痴を述べたい想いとかがあったのでしょうね。そして実際それは多少は果たされたし。うーん。でもやるならちゃんとやりたかったよね。疲れていた。
とにかく今夜は寝ましょう。三連休の癒しキャパシティに賭ける。
具合が悪い状態が続いています。熱は動くと微熱になる程度だけど、疲労している感覚はずっとあります。喉にも軽い違和感があるけどいまのところ酷くはなっていません。
Jenkinsのプラグインのコードを書いていました。とりあえずキーチェインを操作するところは動いたのだけど、認証情報を設定するところがUI絡みで面倒そうです。ザ・ジャバという感じだ。
ところで明日は昔のバイトの知人たちと絶滅危惧種(うなぎ)を食べる会というのがあるのですが(明後日だと思ってたけど日曜日って土曜日の翌日でした)、この具合だと行けるのか微妙です。というか行けてもどうなるかわからんという感じ。夜だと思ってたら昼になってるし。まあ、とりあえず今夜も早めに眠りましょうか。そういえば勉強会準備もしないといけないんだよな。うーむ。
結局うなぎ会にはゆきませんでした。そこまでひどい具合だったわけではないのだけど、それは安静にしているときだけで起き上がってみると微熱が出る、というのがここまでの流れだったのと、ここでしっかり回復しておかないと月曜日に差し障りがあると思われたからです。行きたかった。最初誘われたときはあまり乗り気ではなかったのだけど(僕はどんな顔して彼らと会えばいいのか、といういつもの不安)、それでも僕が普段接するような人々よりはずっと背景の似通った人たち、なつかしい人たちとお話できる、ということへの期待が日に日に大きくなっていたことに気づく。せっかく誘ってもらったのに、申し訳ない。そういうわけで体調も相俟って精神的にもブルーです。輝くものたちは僕を置いてどんどん遠ざかってしまう……。元気になりたい……。
なのでamazonで本を買う健康法を実践しました。
夕方は取締役に頼まれていたGoogle Spreadsheetのスクリプトを書きました。僕としてはあんなブラウザ上で動くモノにあんまり無茶をさせるべきではないと思うのだけれど……。
「長門有希ちゃんの消失」最終話を観ました。なんですか、これ。これが「長門有希の物語」?
amazonで本を買う健康法の一環として、何年も前に薦められていた「私のいない高校」をkindleで買って読みました。最近はkindleで読めるものはkindle版を買うようになりました。本棚が限界だから。
文章は、一人称的な視点を排除して、便宜的に担任を中心に据えた、高校での数ヶ月の描写で、要するに前衛小説と呼ばれるのでしょう。検索すると円城塔の名前を横に置いている人もいました(僕は全然違う種類のもののように思われるけれど、中心からの距離という意味では似たようなものなのかもしれません)。
タイトルは文中に(「私」の存在をめぐる)なんらかのトリックが置かれているように読めますが、そういったものが明示されているわけでもなく、ただ本当に淡々と学校の話が書かれています(実際、学校の先生が書いた記録的な本を下敷きにしているそうです)。とにかく「小説的な」出来事がまったく起こらない。誰もなにも成長しない。所々に不穏な描写(生徒が所持品を紛失するとか)が入るのに、それらは本当にただの日常としてその後触れられることもない。それを不穏だと思わせているのはこれが小説として提示されているという事実一点のみであり、これが本当になんらかの報告書であればそうは思われなかっただろう。タイトルもタイトルで、それらの不穏な描写を拾いあつめながらいつ仕掛けが明かされるのかと読み進めるのだがついに最後までなにも起こらない。僕は何を読まされたんだ。小説を読んだのとも、報告書を読んだのとも違う、この読後感は、なんなんだこれは。
髪が乾いたら寝ましょう。明日はもうちょっと良くなっていてくれないと困ります。体温は今日はあまり上がらなかったけど、単にずっと部屋にいたからでしょう。
追記:こういう「放課後のプレアデス」評を読みました。
http://d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20150714/p1
すっごいなと思います。僕にはこんなにとても語れない。同じものを観て、僕だってこの作品とても好きだなと思ったのに、僕にはこれの1%くらいしかそれを説明することができない。それは悪いことではないと間違いなく思うけど、でも残念だなと思う。いや、こうしてそういうのが上手い人が書いてくれるのを読むのは十分に楽しいけれど。でも。
具合が悪いです。薬が効いてないのでは。まあ飲み始めてまだ数日だけど……。
具合が悪いせいかやる気が出なかったので本を読んだりしていました。よくありません。勉強会準備をしなくてはいけないのだけど。資料は六割くらいできてるけど。今夜八割にしたい。
僕は人生を間違えてしまったのだなあという想いが強くあります。もうどうなってしまっているのかわからないから最初からやり直したい。そう、今日はすこしだけ、最初からやり直したいと思いました。以前ならただ終わりにしたいと思っていたところなのだけど。でもちゃんとやり直せたら、楽しいこともあるかもしれないとすこしだけ思ったのです。なぜだろう。なにかあったのかな。
でもやっぱり僕は死んでしまうのじゃないかという気がする。三十歳くらいで。それならそれで、もっと刹那的に生きればよいのではないだろうか?
僕に最後に残された独我論的な気分、すなわち「この」痛みの〈リアル〉は、だけどこれもなんだか解体可能なような気もしてきました。結局その〈リアル〉は、それらが僕にとって持つ特別な意味によってしか特徴付けられないものであって、そしてその特別な意味もまた、言語の力で「脱括弧」できるものでしかないのではないか。いや、それはナンセンスであり、この〈リアル〉のほうこそを基点に考えるべきなのかもしれない、だがこの「考える」だって、結局は言語の上で起こることだ。あれ、これでは完全に議論が後退しているような気がする。また僕は無我論に戻るのか。自由意志を失ってしまうのか?いやいや、それは困る。だからやっぱり僕は、〈僕〉は、この〈リアル〉をこそ基点にする必要があるのだ。その上で、言語がそれらをどう脱括弧するかは問題ではない。それは僕の関心のある記述ではない。
具合が悪いな。髪が乾くまでは勉強会準備に専念すること。