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朝起きて新幹線で東京に戻りました。台風の影響で新幹線止まるかなと心配したのですが、一時間くらい遅れた程度でした、よかった。
それから一旦家に戻ってすこし昼寝をして、それから保健センタにゆきました。休学することにしました、という話とか。先生が、「嫌なことから逃げるということをしたひとは、表情にそういう後ろめたさが表れるのだけれど、あなたにはそれがなくてスッキリしていますね」と言っていた。まあ僕も決めるまでは後ろめたい気持ちでいっぱいでしたけど、いまは新しい生活への期待めいたものさえ感じています。今度こそ僕は自分のできることをやって生きてゆくことができるかもしれないんだ。
夜はうみねこEP4やってます。今日中におわるかしら。明日は午前中に保健センタに行ってちょっと前の血液検査の結果を聞かないといけない(血糖値が高いとかなんとか)のと、午後は研究室で机を片付けたり書類をそろえたりしようと思っているので、今夜はあんまり夜更かしできない予感。
そういえば母が、本格的に会社員になる前にもう一度戻ってきてゆっくりしたら、と言っていて僕もいろいろ助言を受けたりすべきだと思っているし(スーツってどうやって買うのかしらん、とかさ)、そう悪くないかなと思っているのでもしかしたらそうするかも。交通費が出るなら、ですが()。
自由意志について。
まず古典的に考える。物体の運動はすべてニュートン方程式とマクスウェル方程式で記述されるし、そこにはひとつの曖昧さもない。自由意志は存在しない。
量子力学を導入する。コペンハーゲン解釈をとるならば選択はつねに波動関数の収縮として生じ、そこに(「スケールが異なる」)人間の脳の意識の介入する余地はない。エヴェレット解釈をとるならば無数の選択肢すべてに対応する並行世界があり、ある選択をする僕もしない僕もパラレルに存在する(藤子・F・不二雄「パラレル同窓会」を思い出す)。この僕がこの僕であるのと同程度にあの僕はあの僕であり、この僕であると同時にあの僕でもあるがゆえに意志はどこにも介入していない。
しかしこの論法を持ち出していいのは「過去の選択」をどうこうする場合だけなのかもしれない。これからなされる選択に対してどのように臨むかについて、僕は「自由意志を信じることができる」のならば、それは「自由意志を持つことができる」とどう異なっているのか。「自分がなにを意志するか」は誰にとって自由でないのか。「『自分がなにを意志するか』が自分の自由である」とはどういう意味か。この方向に考えるべきものがある、ような気がする。
とりとめもなく。