diary

0420

「はっぴぃ にゅう にゃあ」をひさびさに聴いています。いいですね、これ。


二限に出て、D2とM2の論文中間審査を聴きました。また大学をやめたくなりました。アカデミズムの場がこういう習慣を持っているのなら、僕はそこから排除された人間であって、そこにいるべきではないのだと思いました。そもそも人の話を聴くのは得意ではないし、二十五分もずっと話し続けられて、スライドもよくわからないし、背景の説明も僕ほどなにも知らないとちっとも意味をなさないし、質問者は意味があるのかないのかわからない質問をするし応答もよくわからないし、感想を書けと言われてもちっとも思いつかないし(「実験がうまくいってよかったなあと思いました」「実験がうまくゆくとよいと思います」くらいの感想しかないです)、これを毎週やらなきゃいけないのだと思うとほんとうに暗い気持ちになります。
ああ、ほんとうに。あの「それって他のひとはやってないんですか」っていう質問、僕にはあまりにも不愉快だったし、ああこのひとは別にこの話に関心なんかないけど効果的な攻撃をすることに価値を見いだしているんだな、と思うのに十分でした(でも、自分が自意識おばけだからって他人もそうだと仮定するのは傲慢な態度だな、とも思うので、これはほんとは思わなかったことにしたいです)。

おわったあとに先輩と同期とでごはんを食べました。先輩はこういう発表、一年たってようやくわかるようになってきたと言っていたので、僕も一年がんばればこういう疎外感を感じなくてもいいのかな、と思います(たしかにすこしずつわかる話も増えてきた印象はあります)。でもやっぱり感想とかは持てないなあと思いました。

「読書感想文が苦手だった」という話はとても普遍的に見られるのに、感想を持つことのできない大人というのはあまりいないように思われます。そこから推測されることはよくわからないのですけど、人生のどこかで感想を持ちやすくなるのか、そもそも「読書感想文が苦手」というのがなんというか「あるあるネタ」の抽象度の高いバージョンみたいなもので、要するにみんなべつに苦手でもなんでもなかったのか、みんなが苦手だと言っていたのは単に本を読むのが面倒だっただけで書くのは苦手でもなかったのか、などいろいろな可能性が考えられて、僕は最後の説を若干支持するものですけども。読書感想文のために本を読むのは好きだった。夏休みのたびにこれで書こうと三冊くらい読んでは書けぬと悩んでいた気がするのはだいぶ盛ってる(本はいろいろ読んでいたけど)。

あと、同期はあまり言葉遣いの強さについて気にしないひとなのだな、と思って悲しくなりました。僕が思っている言葉の繊細さというのはべつに普遍的でもなんでもないと思うのですが、たぶん彼にはそれが些細な問題に思われたのでしょうし、僕の反論はただの反論のための反論だと思われたのだろうなと思って、ああ僕はもう誰ともおはなししたくないな、と思いました。僕はね、そのふたつを同値とみなすような大雑把な言葉遣いはしたくないな、と思うのです。というか、違っていることにほんとうに気づかないのですか。現象としての意味は同じでも、描ける画がぜんぜんちがっていると、ほんとうに思わないのですか。思わないなら、いいです。ごめんなさい。

つらいなあ。みんなは僕みたいにつらくないように見えるし、僕のつらさがみんなと同じくらいだと思っているように見える。僕の困難は「なんだかんだでできる」の外側にあるって、証明すること、きっと死んでみせるしかやりかたがないのだと思います。人間ってのはそういう風に想像力の無い動物で、それとも、人間の均質さに関する信仰に、固執する動物なのです。
比較できないものの比較は操作的にしかできないし、そのとき顕れた差異を誤差なり例外なりと片付けられてしまうのは、とてもつらいです。
もう、つかれました。

そういえば、研究室で着々と素粒子だの数学だのに明るいキャラみたいになりつつあって、なんというかそういうの吹聴しないでほしいなって思ったりはするし、かなしいです。ただ、かなしいです。

いろいろな感情、区別するのがしんどくなってきて、「かなしい」に一本化されてゆく感じがあります。かなしい。かなしいです。

大学、やめたいなあ。やっぱり僕には向いていなかったんだ、って思います。だめならやめようって言ってた僕、いまこそ「だめ」ではないのかね。

あああ、でも、こわい。なにかを変えるのが、こわいです。僕の心だけを器用に殺して、身体だけが明日から先を生きてゆくようになればいいのに。月曜日になればまた授業に出て、研究室に通うようになればいいのに。

僕に向いていることなんて(社会的に価値を認められる範囲には)なにもないし、たぶん僕は向いてないと知っていながら学生をつづけて、向いてない仕事について、向いてない毎日を過ごすのでしょう。

でも、来年まだ生きているのか、もうよくわかりません。大学にはもう、いないような気がします。そしたらきっとこの家からも出なくてはいけなくて、実家に帰ったら惨めな生活になって、そうなったら、(とてもおそろしいことだけど、だけど、)僕はきっと死ぬんだと思います。

僕はどこで間違ってしまったのだろう。最初から間違っていたのかもしれません。所詮は夢物語だったのです。僕はもっと不幸であるべきだった、いや、むしろ、それでこそ、幸福だったのかもしれません。僕には、なにが幸福なのか、もうわかりません。

ときどき、恋人ってものがまたできることを考えます。そうしたら僕は元気になって、自信を取り戻して、溌剌として大学にゆき研究に邁進し、社会的に成功するのかもしれません。でも、きっとそんなことはないのだと思います。なにしろ僕はこんな人間ですし。昔はもうすこし、前途有望に思われたけれど、いまの僕には、もう破滅しか残されていないように見えるのです。かなしいですね。かなしいかなしい言ってばかりで、ちっとも価値のある存在に思えないです。かなしいですね。

病院に行ったり薬を飲んだりしたら治るのかな、と思ってみて、だけど僕はもう十何年もこうだったし、それを薬で治すってのはどういうことなのかわかりません。それは治っているのですか。それは誰なのですか。僕のいとおしい僕はどこへゆくのですか。毎日を慎重にたぐり寄せてゆく限り、破滅の予感はつねに横にあって、これまでずっとうまくできなかったことが、今になってとうとう破滅をもたらしたというだけなのに、それを治すっていうのはどういうことなのですか。

たぶん僕は、人間じゃないのだと思います。かなしいです。おやすみしたい。さよならしたい。ごめんね。どうか心配しないで、素知らぬ顔をしていて、僕がほんとうにだめになっても、助けようなんて思わないで。生まれてきた僕がわるいのに、そんなふうに他人のリソースを要求するなんて、我慢ならないのです。

いつかこれを読んだ誰かが「なにも死ななくてもよかったのに」っていうことを考えています。学校なんてやめたらよかった、バイトなんてやめたらよかった、一年くらい、ただゆっくり休んでいればよかった、死んでしまうくらいなら、そうしたらよかったのに、きっとそういうのだと思います。これは、これは、無限遠への悪意です。


明日は土曜日です(よね)。日曜日はシフトが入ってしまって、ほんとうは行きたくないけど、僕は無能なのにずいぶんとお金をもらっているから、せめてたくさん働いて報いなくてはいけないのだと思います。お仕事、ほんとうはもうやめたほうがいいのだと思うけど、生活が成り立たないから、がんばらなくてはいけません。がんばってまで生きていたくはないけど、まだ死ねないと思います。生きていてお金がないと、きっと異常者のふるまいをしてしまうから、お金を稼がなくてはいけません。がんばる。とにかく明日はゆっくり休めるから、あしたはゆっくり休みます。来週の金曜日に友人とストライクウィッチーズの映画をみにゆく約束をしたので、それまではがんばろうと思います。でも僕はずっとがんばろうと思っていたはずなんだけどな。