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昨夜からずっと「サクラノ詩」プレイしています。ブランコのたとえ話がとてもよかった。
医師「いいですか。もしかすると時々、この世ならぬ誰かが自分を通してこの世界を覗き込んでいるとか、自分の心の声に耳を傾けているとか、それどころか自分の選択を操っているとか、そんな気がすることがあるかもしれません。でもそれは嘘です。気のせいです。惑わされてはいけません。話しかけてもいけません。仮にそんなものがいたとしても、あなたには本質的に関係がありません。あなたは自分の人生を生きるべきです。」
世界が僕だけの世界になって空間的に並列する他者との共有可能性を失った上に、〈今〉の特権性によって時間的にも孤立してしまうなら、もうこの世界は一点にまで収縮してしまって、果たしてそれでいいんだろうか。いや、それってつまり、世界とはこの僕からの「見え」の総体であると言ってしまっているのではないだろうか。だったらやっぱり僕が見ている向こうに
いやいや、まず世界を時間方向に収縮させることが正しいのかよくわからないぞ。それって記憶の実在性を疑うことだろう?でもそれは疑い得ることなのだろうか?というより、それを疑うことは時間という形式を疑うことなのでは?僕やっぱりカントとか読むべきなんじゃない?
ゲームのキャラクタが自分の行動選択を本当に悩むことと、プレーヤがキャラクタの選択肢を悩むこととは、どこが似ていてどこが違っているだろうか?似ているのは明らかに、その選択によって見られるお話が変わってくることで、だから選択者は望ましい結末のために選択肢を選ぶ。違っているのは?プレイヤーが選ぶ選択肢がキャラクタの望む結末(そんなものがあるのか?)へ導くとは限らないこと?