一月二十四日ですけど!
昼まで寝ていた。それからレポートをごにゃごにゃした。清書と並行して書いた。[2]はあと三十分もすれば片がつくだろう。最初のほうは相対論的でおもしろいけれども実際に計算するときはそうでもないものだなあと思った。電磁場はつまらないな。滅びたらよいのだ。
こういう態度が、相対論厨とでも呼ばれるべきもので、相対論のことだって別に深く理解して言ってるわけではない、専門家からすれば鼻で笑われるようなものであることは承知しているけれど、やっぱり僕は相対論の記述が好きだし、別々の操作を添字で束ねて斬り結ぶ感じが好きだし、どうしようもない。こういう枝葉末節に拘りたがるあたり僕はやっぱり無能なのだと思う。でも無能だって気持ちよく生きて行けてもいいじゃあないか、とも思うのだ。だから僕の人生は、無能をマネジメントするということについて考察してゆくものになるのではないかと思う。成果があるとは思えないが。
夕方と夜にSとskypeで話した。最近僕は彼女に構ってもらいたがってばかりいる。ごめんねといいながら付き合わせようとする。自分のクズ人間であることはよく承知しているけれど、こいつはまだ死ぬ気はないらしくて、僕はほんとうにそれが厭になるのだけど、厭になったからといって問題が解決するわけでも死ねるわけでもなくて、やっぱりこれもうまく管理してゆかなくてはいけない感情なのだと思う。僕は不十分な人間だから、まっとうな人間のために作られたいろいろなルールだとか、生き方の指針みたいなものを、すこしずつ歪めながら生きてゆかなくてはいけないのかもしれない。すくなくとも、そうでなければ幸福にはなれない、ような気がする。幸福ってなんだろう。幸福であることか。うむ、そうだな。
自分に見える景色だけを、自分に触れるものだけで整えてゆく。自分の外側に広がる巨大な「正しさ」に自分を接続するのはやめた。そんなものが存在するのなら、よかったけど、それは存在しないのだ(これはつまり、僕が世の中に失望したってことだ)。結局自分に見えるところしか正しくしておけないし、自分は全部を正しくしておくにはあまりに不十分な存在だと思ってしまったから。だから自分に見える景色だけを大切にしてゆく。その景色の中に、君がいるから、僕は君が幸福でいてくれたらよいと思う(唐突)。
水曜日はSが遊びに来てくれるといいます。Japan culture lab.の動画でもいっしょに観て笑おうと思います。
で、日記だ。夕飯はさっきλと肉を食べました(λと一緒に食べたのであってλを食べたわけではありません)。そこそこ安く肉を食べられる店を覚えたのでよいなあと思います。これから三十分ほどレポートと格闘をして、もしかしたらそのあとfλとかとお酒を軽く飲むのかもしれません。明日は二限にゼミナールですけど、まあ論文なんて印刷していけばどうでもいいかな、と思います。もう僕はあれに興味が持てないや。実験の誤差の評価に終始した論文なんておもしろくもなんともない。根性がないな、僕は。