一月十日ですけど!
編集画面で戯れにCtrl+Rを押したら書いていた内容が全部消えた。僕の一日もそんな感じに消えてしまえばいいのにとはあまり思わない。
昨晩はfλとラーメンを食べ軽く酒を飲み三時頃に帰宅就寝。起床は昼過ぎで夕方までは読書をし夕方からは細々と計算をしている。レポートはどうにかなりそうだがここ数日の細々とした計算たちは散逸してしまっていてしかもところどころ不完全である。まあしかし、不完全のままに放られているのはそれが些細な瑕疵に過ぎないことの証左であると信ずる。清書には多少の困難が予想されるが夜は長いので悲観はしていない。明日は物理学ゼミナールが休講であり演習は四限からである。間の量子力学は最悪休んでしまってもよいのだがそろそろ出ておきたい。それに演習の発表担当を獲得しなければならない。果たして自分に解ける出題があるのかは疑問である。同種粒子の多体系の振る舞いについてまったく勉強をしていないのだがこれはwebで知識を補える範疇と信ずる。しかし、一週間か。量子力学は次週に中間試験を控えておりそのための復習もしなくてはならないのだからこれは一大事である。とはいえ散乱理論については演習の中間試験のためにいくらか勉強をしたからそのあたりをもう一度軽くさらえば無難にやり過ごすことはできるかもしれぬ。
「正しくない」ことの正しくなさがいたるところで声高に叫ばれているなかで、「正しい」ことの正しさはただそこにそびえ立ち静かに微笑をたたえるのみである。だから世界は「正しくない」ことにあふれており、僕は無数の「正しくない」ものたちを目にしたにもかかわらず「正しい」ことを見つけられずにいる。
「砂の女」読了。書かれていることたちはなんだか漠然としていてきちんと置くことができなかった。それらは長い時間を掛けて沈殿してゆくのかもしれない。僕はどうも、読んだ瞬間に背筋を電撃で打たれるような本ばかり読みすぎたのかもしれない。それらの本に世界観を抉られる快楽に馴れすぎてしまったのかもしれない。そもそも僕には小説というものが読めないのですけれども。起伏のない記号列としてしか受け取れないのですけれども。そうは言ってみても当の自分でさえもがその記号列の中に何らかの情動を埋め込もうとしている、そのさまはなんらかの意味で滑稽に思えるけれども。
夜が長い。