どうしようもない、よくわからない日記 κねこせん / @necocen 物理と数学が好き(なわりに苦手)な大学三年生。割とこじらせがちな傾向。将来が不安。 ---- 03/21 昼に起きてだらだらしてふねさんとまもるさんを駅まで送った。昨晩聞いた話が断片的に頭の中にあって、じゃあお前はどうなんだ、みたいになって焼き殺したくなる。僕の脳裡では日々手軽に僕が殺されています。そうやって空想の中でパチパチと僕が焼ける音を聴いて僕はまた安心感のようなものを得る。ああ神さまかそのほかの誰か、今日も僕はきちんと僕を罰していますからね。 それからまた昼寝をして、夕方に起きた。夜にはサークルのコンパがあったのだけど、頭が痛かったし食欲とかなかったし、実をいうとお金もなかったので欠席することにした。もっとほんとうのことをいうと、サークルの仕事の引き継ぎですこしトラブルがあって、ちょっと顔を出したくなかった、というのもある。ほら、こうやって僕はしゃべった分だけごまかしの嘘をつくのだ。万力で親指を締め上げなければならない。でも僕が空想の中で僕を殺したり痛めつけたりするとき、僕はいつもそれをみている側なのだ。どんなに反省するふりをしていても反省しているのは僕じゃない誰かなのだ。スプーンで目玉をえぐり出したい。右目をえぐっておいて、左目でそれを見つめさせたい。先ほどから想像がバイオレンスなのはたぶん花粉症がひどいからです。ひどいや。 明日は昼からバイトなので、今日はこれくらいにして眠ります。その前にすこしゼミの復習をしようと思います。おやすみなさい。(03/22 02:25) ---- 03/22 (幸福のことを書こう。) そんなことが書いてありましたがとりあえず日記を書きましょう。 今日はアルバイトでした。プログラミングをするアルバイト。僕の高校時代の先輩がいたりしてたいへん居心地がいい。始めたきっかけは、ちょっと前にお酒を飲みながらTwitterを眺めているときに誘われたからなのですが、始める前と比べて暮らしが良くなったかというと微妙です。遊ぶ暇はなくなったけど。 それで、終わったあとにさしたる理由もなく焼肉に行きました(焼肉はあのお祭り感みたいなのが好きです)。先輩が、三次元には興味がなくなったみたいな話をしていて(そういえば高校生の頃にもそんなことを言っていた)、僕はそんなの嘘で強がりに決まっていると思ったのだけど、ほんとうに他人との接触が嫌いなのだと言っていました。そんな風になってしまったら、僕はきっと死んでしまうだろう。そこにある幻想が幻想でないと信じられなくなってしまったら、もはやなんのために生きればいいのだろう。僕も、二次元に生きるぜみたいな強がりを言ったことがあったけれど、どうやったって僕には身体があって、殴られれば痛いし外が寒ければ凍えるし、(試したことはないけれど)裸で抱き合えば気持ちがいいに決まっていて、それを全部嘘っぱちだと否定してしまうことはできそうもないし、そのために生まれてきたと思わなければやりきれない。特別じゃない僕は特別じゃないことを特別みたいに思わないといけないのです(それもきっと特別じゃない)。 話は変わりますが、僕はたくさんの人の影響を受けています。Twitterで見かけた人とか、気に入った作家とか、尊敬する友人たちとか。それで僕が書くものにもそうした人たちの影響が出てくるわけですが、僕はその度合いが強いほうだと思います。自分の考えたことや書いたものや、しまいには気持ちまで、誰かのパクリでしかないような気分になってくる(そしてこの気持ちさえも誰かのコピーにすぎないかもしれないと思うわけです)。そんな時には、目や耳や手触りや、そういう入力を全部とっぱらって、なぜか白い部屋に引きこもってしまいたくなります。「釧路の白い城の後ろで四六時中走ろう」という言葉には「しろ」が六回出てくる。 なんの話だかよくわからなくなってしまいました。変な駄洒落のことを考えてしまったからでしょう。今日は首が痛いし、明日もバイトがあるのであまり遅くまでは起きていないつもりです。幸福のことを書くのを忘れていましたが、よくわからないのに書けるわけもないのでした。けれど、昔ちょっと考えた文章があるので、引用しておきます。 「ぐるぐる、ぐるぐる。個展をひらきたい、かもしれませんね。なんだかよくわからないけど僕がよいと思った絵とか、なんだかよくわからないけど僕がよいと思った詩のような言葉を並べておいて、『まあ、よくわからんでしょう』って自嘲的に笑ってみせる。きっとそんなものだれも観にはこないんだけど、僕は毎日そこにいて、いつか誰かが『お前はどうしようもなくつまらない男だ、死ね』と言ってくれるのを待ち続けるんだ。それを言われたとき、僕はとうとう本当に生きていける気がする。気がするだけさ。ぜんぶ嘘っぱちだもんな、こんなもの。嘘で嘘を掬い上げるようなものさ。それでも僕は期待してるんだ。誰かが、そんなものを好きですといってくれるひとがいることを。矛盾した文章になってしまったな。突然ですが僕は矛盾していますから背理法により非存在が導かれます。そうして手品師はステッキを振って、あとにはなにも残りません。」 これを書いた僕の意図はほんとうにはもうわかりません(去年の十二月のことです)。でも、僕はこんな奴のためになら、泣いてやってもいいんじゃないかという気持ちになります。(03/22 23:20) ---- 03/23 いまから特に理由もなく酒を飲むつもりでいるので先に日記を書いておきます。そういえば昨日と一昨日の日記で声がちがっているのだけど、まあちがうことを考えてるのだから当たり前です。 今日もバイト。些細なことだけど、なんだか役に立ちそうなコードを書いて満足感を得た。満足であるということは幸福ということだろうか。だとしたら僕は役に立つ人間になればいいのだろう。歯車に萌えているうちに歯車になってしまうのだ。ぐるぐる。 帰りに駅で電車を待っていると、灯りの消えた電車がやってきて、どこかで電源関係のトラブルがあってJRが全滅だと知らされた。それで地下鉄に乗って帰ったのだけど、そのあいだにいろいろなことを考えたりして、ああやっぱり僕はあのときあんなことを言うべきじゃあなかったのだなとか、自分を責めるようなことばかりを思い出して死ななきゃいけないような気持ちになったのだけど、ちょうど横にあったお店からおいしそうなうどんの香りがしたのでそういう気分は持続しなかった。嗅覚って普段忘れてるけどけっこう強いのだろう(こうしてまた身体に縛り付けられてゆくのだな)。 世の中には無数の嘘があふれているということを僕はもう知ってしまっているし、僕だってたまには嘘をつく。真剣にごまかしたいときは真剣に嘘をつく。だから、僕にはもう誰かが言っていることを、それが真剣であればあるほど信じることができないし、僕がなにかを言いたいと思っても、それが真剣であればあるほど信じてもらえないような気がする。こんな気分全部がただの中二病なのかもしれないし、そこらあたりのことはもうわからないとしか言えない。なにかを思うことさえ誰かの許しを請わなくてはいけない気がするのだと思う。 そういえば、昨晩はひとうしさんとskypeですこし話したのだった。というかひとうしさんがクレイジーな話をするのを読んでいた。一年ほど前に死んでしまったある作家のこととか、物語の呪いのこととか、自分を救う自分のこととか、街で見かけなかった(そしてこれからもたぶん見かけない)ジャンゴというねこの話とかだった。僕も小学生だったときに好きだった女の子の話をした。 明日は友人が僕に数学を教える日だ。最近ちょっと復習をしたので得意な気分である。(03/23 21:44) ---- 03/24 夕方まで寝ていた。夕方からはゼミに行った。友人が相対論の数学的準備をしゃべって、僕があとでノートをまとめ直すのだ。帰省中はその作業をするつもり。ほかにも三月中にやらなければならないこととかあって困難が予想される。「どんなんが予想されたんだ」「こんなんです」(まあだいたい今日はこんな感じです)。 それで今はその友人がうちに来ていて、そのゼミの原稿を書いている。明日僕は電車で帰省するので今夜はさっさと眠るつもりだ。これを書き終えたら食器を洗って、ゴミを出して、友人を寝かしつけなければならない。荷物をまとめるのも必要な作業だな。まあ僕があずにゃんと呼んでいるノートパソコンを鞄に入れるだけなのだけど。こないだは留守にゃんだったけど今回は来るにゃんです。なにを言っているんだ。 そうだ、それで明日は帰省です。昼前に出発して、夜に実家に着きます。夕飯は豚の角煮だと予告されているのでたいへん楽しみ。ところでこの日記、ふねさんに「2000~4000字くらいで」と言われていたのだけど、すでに3000字を過ぎているはず。どうしよう。(03/25 00:04) ---- 03/25 文字数がふえすぎてしまったよとふねさんに相談して、とりあえず昨日までの分を見てもらったら、どうやら気に入ってもらえたようで、もっと書いてと言っていただいた。こんなことでうれしくなる自分を否定するところから始まっているのだけど、でもうれしいけど、うれしいと思ったらそれは嘘なんだ、と。まあいいや。日記します。 今日は電車で帰省。関東にいる間は雨が降っていたのですが、豊橋から米原へ新快速に乗っている間に止んで、いつのまにか晴れていました。パソコンで作業しながらふと窓の外を見ると、進行方向がオレンジ色に光っていて、雲の中が不思議な色になっていました。空が青いのも夕焼けがオレンジ色なのもレイリー散乱だかのせいなのですが、ちょうどいい時間にちょうどいい雲があると雲の中で夕焼けのオレンジと空の青がまだらになってそういうことになるのだと思っています(本当かは知りません)。つまらないことですが、雲を見るのはそこそこ好きです。 実家の近くの駅や道は、中学・高校の時の通学経路と被っていて、六年間、学校のある日は毎日通った道を歩いていると懐かしく思えてきました。六年というのは(二十歳の僕からすれば)すごいことです。十二歳の僕と十八歳の僕が変化しながら同じ道を歩いているってことが。その間に僕は一人称を変えたりちょっとはものを考えるようになったり人と会うのが苦手になったりして、でもその足許にある道は姿が変わらないし、同じ時間帯に会社に行っていた人たちもきっとだいたい同じだったことでしょう(毎朝おなじ煙草の香りがしていて少し好きでした)。僕のまわりにあるものはだいたいが六年もあればすっかり変わってしまうのに。この感覚がなんなのかよくわからないのですが。 それで、実家にいます。今日は帰ってきたばかりなのでえらく歓迎されていますがこの歓迎度は時間とともに指数関数的に減衰することが予想されます。どうせ明後日くらいには「もう帰ってくるな」と言い出すに違いない。いまは居間のソファに座ってこれを書いていて、母が風呂に入れとうるさい。実家や家族のことはまた書く機会もあるでしょうから(ないかもしれませんが)、今日はこれくらいにしておきます。(03/26 00:23) ---- 03/26 眼鏡を変えたので視界が変な感じです。遠くはしっくりくるけど近くはなんか変。いつもと同じに見えているけどいつもと違って見えている気がする。そのうち慣れるでしょうが。 母に連れられて祖母に会ってきました。祖母は認知症かなにかが進んでいてシルバーマンションと老人ホームの複合のようなところに住んでいるので、祖母に会いにゆくと同時にものすごい数の老人を目にするわけですが、とりあえず僕はあの場所が嫌いです。単純になにか吸い取られそうというか、まあそれは半ば冗談なのですが。 あの場所に行くと、いつもいろいろなことがわからなくなります。たとえば人間が生きる意味だとか。なぜ生きていなければならないのか、とか。僕はようやっとのことで、自分の理性の限りにおいて「正しい」ことを為す、ということをしながら生きることを目標に据えて、「正しい」ことをしている、と思うことがなにか救いのようなものとして機能するようにしているのですが(それは「正しさ」を用意できていない現状あまりうまくいっていないけれども)、それは自分の理性がある程度の豊かさを持っているという確証があってこそ可能なのであって、そうでない場合になにを目標に生きていればいいのか、なにが自分を救ってくれる(と信じることができる)のか、そういうことがわからなくなるのです。なぜ幸せでなければならないのか、それは誰のためなのか、そういうところにまで思考というか連想のようなものは派生してゆくのですが、結局よくわからないままで頭の中がばらばらになってしまったような気持ちだけが残っていて、ちゃんと言葉になりません。言葉は一次元にしかつくれないからでしょうか。 帰りの車の中で母と話したのですが、やっぱり僕はあの場所の雰囲気が我慢なりません。会話が成立していないとかそういう段階にもないような言葉に謎の笑顔で相槌を打つ人とかを見ているとどんどん混乱してしまうのです。母の話には「赦す」という言葉が何度も出てきたのですが、相手の言葉の内容が何も理解できないのに相槌を打つことを正当化する方法は、いまの僕には見つけられないのです。きっと僕は、自分が赦されていることさえ赦せないのだと思います。 そうだ、帰りに寄ったジャスコの中の書店で、グッドデザイン賞に関する本を眺めたのでした。ちゃんと読んでないので何の本だかよくわからないし、そもそもグッドデザイン賞がどういう賞なのかよく知らないのですが、グッドなデザインが選ばれているのだと思います。グッドなデザインのいろいろなものの写真が載っていました。あんな風な「いいなあ」と思えるものをたくさん見て、周囲に配置して(これは武装を連想させるけど)、そのうちいつか、自分がいちばんいいと思うものを表現できたらな、と思います。絵が描けたらいいな、とか、詩が編めたらいいな、とか(そう、「詩を編む」ってとても好きな言葉です)。そのためにはまず、そういう「いい」ものを蒐めなくてはいけないし、自分の思ったことをもっと真剣に書くことをしなくてはいけないのでしょう(この日記もその練習のつもりです)。 明日は夕方にでも髪の毛を切ってもらいに行く予定です。去年の夏以来です。(03/27 03:58) ---- 03/27 日付が変わってから書くことが習慣化してきました。実家にいるとなかなか集中できる時間がとれないのでこうなります。 昼過ぎに起きて(ここでは昼過ぎまで寝ているというだけで迫害される!)、予定通りに夕方から散髪にゆきました。散髪の間は数学のことを考えていました。店の人との会話が弾んだりすることはまず期待できないわけで、あそこにいる間はいつも数学のことを考えているような気がします。計算用紙がほしい。 帰ってきてからは、これといっておもしろいこともなかったので、夕飯について書こうと思います。うなぎと、ブロッコリーと、なんだかわからない豆腐(母はこれを「あったかい冷や奴」と呼んだ)でした。ブロッコリーは嫌いだし、今日のブロッコリーは僕の知ってるブロッコリーの中でもワースト3くらいには入るものでした。うなぎはとてもおいしかったのですが、うなぎって奴は最初から頭がないと良いと思います。それだけ。 そうだ、さっきテレビを見ていたら、二十五歳くらいの女性と三十五歳くらいの大工の男性と二十九歳のフリーターの女性が掲示板だかメールだかで十八歳のひきこもりの男性にいろいろアドバイスをしている様子を取り上げた番組をやっていてとても嫌な気持ちになったのでした。別に彼らの言ってた内容そのものはどうでもいいのですが、ただ、先に生まれた人間がよってたかってあとに生まれた人間にあれこれ言う、という構図が許せないというか。いや、許す許さないではなくて、正しくないと思う、というか。これはもう番組とは関係なくて一般的な話なのですが、たとえば「自分もそういう時期があった」なんてのはあまりにひどい。一つには、それで何かの救いになると思ったら大間違いだということ。もう一つには、うまく言えないのですが、それは暴力なんじゃないのかということで、たとえばある日いきなり未来から来た自分を名乗る奴が出てきて説教を始めることを考えるといいと思うのですが、そういう奴は殴るに限るわけで、これを軽率に口に出す人間はみな他人のことなど真剣に考えていないに違いないのです。だいたい、「よりよい人生」だとかいうものがある、という考え方そのものがおかしいのです。選ばれなかった選択肢のその先をきちんと考えることなんてできるはずもないのに、比較できないものに優劣をつけるという考え方は正気じゃない。そんなことを真顔で言う奴は無限回生まれ変わって全部の選択肢で不幸な死に方をする地獄でもくれてやればいいのです。 そもそも、選択肢なんて考え方がおかしいのです。そこにあるのは確率分布だけで、自由意志など存在しないのに。そう、残念ながら自由意志は存在しません。だからすべての期待は無意味だしすべての後悔は的外れです。まったくなにも否定してはいないのに、ただ灰色だけを心にもたらし続ける、そういう思想がいつからか僕の心を縛っていて、だけどそれは「正しい」主張には違いなく、さながら赤の赤さを忘れることができないように、この限界もまた忘れることができないような気がするのです。そして、それでも僕は、それを打ち破る物語を求めているのです。赤いスカートをはいた女の子の姿をしたそれは、灰色の風景にまぎれた僕を助けに来て、それから手を引いて走り出すのだ。ここではない、どこか遠くへ。平行線さえもが交わる、無限遠へ。 何の話だかわからなくなってきましたが、要約すると僕はどうしようもない奴だということです。ほんとうにどうしようもない。ただ、一度だけ願いが叶うのなら、願うことは、もう決まっているのです。(03/28 05:50) ---- 03/28 今日はとうとう家から出ませんでした。でなにをしてたかというとゼミのノートを綺麗にまとめる作業とか、まあそういうことです。それだってそんなにはかどったわけではないので、要するにだらだらしていたのです。だらだらすることはすばらしい。「すばらしい」は「素晴らしい」と書くわけで、なんだか晴れやかな気持ちになるいい言葉です。そう、雲一つない青空が好きというわけではないのだけど、でも晴れの日というのはいいものです。どうして雨の日より晴れの日の方が好きになったのかは謎です。 とりあえず夕飯の話でもしましょう。夕飯はカレー鍋でした。おいしかった。父は普段ぜんぜんしゃべらない人だし、家族の他の人間に対して積極的に行動するということをしないでいつも不服そうな顔で煙草を吸っているような人なのですが、鍋をやるときだけははつらつとするのです(と書いていると父が起きてきました。気まずい)。父がいつから/どうしてそういう人間になってしまったのかはわかりません。僕が悪いのかもしれません。なにしろ僕はさしたる理由もなく父を嫌っていたし(結果的に僕は父に似ているのですが)、まるで石ころのように扱ってきたのですから。と、ここで父の話をしても仕方がないので、これくらいにしておきましょう。 話はわりと勝手な方向に飛びますが、僕は感謝の言葉というものをあまり重視していません。僕がそれを言われてもべつにうれしく思わないからです。感謝の言葉が人間関係を円滑にするとか言われますが、そんな動機で出てきた言葉がそういう効果を持つとも思えません。僕は誰かに何かをしてもらったとき、なにかうわごとのように「ありがとう」と言うのですが、これはぜんぜん僕の感謝とかではなくて、ただそういう時にそういう言葉を言うように教えられたというだけのことです。僕を駆動しているのはたった一つの感情、恐怖なのですから。 そう、今日は恐怖のことを少し書いておきましょう。これを恐怖と呼ぶべきなのかはわかりませんが、まあ人間の感情に名前をつけるという行為自体が可能なのか微妙なので気にしないことにしましょう(比較できないはずなのに、名前をつけて同一視するとはこれいかに、という考え方が片方にあって、それとは別のモデルも最近は考えているのですが、まあいいでしょう)。僕はときどき、自分ががらんどうになっているような気がして、その中心には赤紫色の光が灯っていて、それは恐怖という感情なのだ、という気分になります。人間を駆動する力は、ほんとうはもっと複雑だったり、少なくともなにかポジティヴなものであるべきだと信じているのですが、ともかく僕は恐怖で動いているのです。試験で落第したくないから勉強する、学校になじめていないと思われたくないから学校へ通う、不誠実だと思われたくないから正直に振る舞う。そういう説明のつけられる行動ばかりあるのです。特にこの「思われたくない」がたいへんな問題で、これがためにいろいろな「常識的な」行動をとれなくなっているところがあります(たとえば人に贈り物をするとか。たぶん僕は僕への贈り物に失望しすぎたのです)。ほんとうにどうしようもない。一度そういう説明を考え出してしまうと、もう自分の行動がぜんぶそれに従っているような気がして、たとえば誰かを好きになることさえ、何か、外面を保つためになされている行動なのではないか、みたいなことを考えてしまうのです。僕は普通でいたい。普通依存症なのです。 まただらだらとよくわからないことを書きました。こんなに書くことがあるもんかと思います。でもいつだって僕は自分語りが大好きでした。自分語りは右手に握ったアイスピックのようなもので、僕はこれを誰かの心臓に突き刺したい、そういう願望というかイメージのようなものがあります。いや、僕が必要としているのはその行為そのものではなくて、ただそれを受け入れてくれる誰かなのかもしれません。ほんとうによくわからない。よくわからないけれど僕の右手にはアイスピックが握られていて、ときどき胸のためらい傷が痛むのです。(03/29 05:27) ---- 03/29 あずにやん!長門! とりあえず頭にそんな言葉を掲げてみせて、今日も日記を書きます(僕は彼女らがとてもかわいいと思います)。とはいえ今日もどこにも出かけていないので、そういう方面の記述はありません。なので夢日記を書きます。今朝見た夢です。もうあまりはっきり覚えていないのですがご容赦ください。 僕は十歳かそれよりすこし年上らしかった。じつは僕は前世だかなんだかの記憶を持っており、そいつはテロリストというか、とにかくなにかの体制に少人数で攻撃してそれなりの成果をあげていた。そのことは忘れられているけど自分は知っていて、それと同じようにもう一度立ち上がろう、みたいな計画だった。力を借りるためにどこかの事務所のようなところに行ったり、コイルガンを乱射しながら横断歩道を歩いたりしていた。それで、そう、その事務所みたいなところの人が言ったのだ。「いまお前らがそんなことをしたって、お前らの世代では二、三年くらいは話題になるかもしれねえが、どうせみんな忘れちまうよ」。たしかに、僕の前世の起こしたテロだって、すっかり忘れられていたわけです。夢の中ではほかにも9.11に言及したりしていましたが、あれはそんなに忘れられてないよな、と思います。これ以上のことは断片的な風景とかそういう形でしか思い出せないのでこれくらいにしましょう。 今日はうまい問題意識がないので楽しいことしか書かないことに決めました。とりあえずおざなりに夕飯のことを書きましょう。夕飯はソーセージとギョウザ(これをカタカナで書くとなんだかアヒル料理のような気がするけどアヒル料理なんか知らない)ととるにたらない野菜たちでした。ソーセージにはチーズが入っていたらしいのですが、そんなことをしてなにかいいことがあるのかはわかりません。味のことはともかくその発想は正気じゃないなと思います。そう、僕は「違う種類」のものが混ざっているのがとても嫌いなのです。食べ物にもなにかの種類の同値関係(これが数学的にいう「同値関係」になっているのかはわかりませんが)があって、それが合致していないものが混ざっていると最悪の気分です。たとえば野菜と果物とか。だからトロピカルカレーは嫌いです。酢豚にパイナップルなんて正気とは思えません。それから、ソースが混ざるのはほぼ無条件でだめです。ドレッシングをかけたサラダとドミグラスソースをかけたハンバーグが同じ皿にのって出てきたりしたら、もう二種類の液体が混ざってしまわないか気が気でなくて、とても食事どころではなくなってしまうのです。ドレッシングとソースが混ざったものがいったい何なのか、何に分類されるものなのかがわからなくなってしまうからかもしれないし、なんだかドレッシングとソースがとてつもなく倒錯的な行為に及んでいるかのような気持ちになるのかもしれません(こちらの方が、酢豚にパイナップル問題などによい説明を与えるような気がします)。こういう話をしてから、僕はA型なんです、と言うとなにか納得したような顔をする人がいますが、なんか気にくわないので今度から血液型を訊かれたらB型と答えてやろうとたくらんでいます。 なんだか結局つまらないことをだらだらと書いてしまいました(楽しいことしか書かないと決めたのに)。しかもなんというか鮮やかさもなにもない話で、こんなものを読んでおもしろいとかたのしいとか思ってくれる人がいるとは思えないのですが、そんなものはチラシの裏にでも書けばいい、とよく言われているのでこの裏にはチラシを印刷するといいと思います。おやすみなさい。(03/30 05:14) ---- 03/30 たしか十五時過ぎ起床。十六時頃までだらだらしていたはず。それなのにもう寝ようとしています。九時間くらいしかうごいていない。でも九時間ったら三万秒くらいあるわけで、三万数えるくらいのことはできます。なにをいっているのかよくわからないですね。そういえば、数えるって操作は数を読むことと(僕の中では)強くつながっているので、数を数える専用の言語があればとても早く数を数えることができるのじゃないかと思います。それか、なにか映像のようなものとして数字をとらえることができればいいのかもしれません。そろばんとかをやる人はそういう風にしているから計算が速いと聞いたことがありますがほんとうかは知りません。 そういえば月が綺麗でした。近頃ではうかつに「月が綺麗ですね」などと言うと愛の告白と受け取られかねない風潮が蔓延していたりいなかったりするのですが(しません)、とにかく綺麗でした(いま僕の指が勝手に「楽しかったです」と入力しようとしました。おそろしい)。月はねこと同じくらい好きです。満月は綺麗だし、三日月はなんだかすてきだし、半月と満月の中間くらいの月は、ここから遠く離れた場所に一個の球体が浮かんでいるのだということを思い出させるような気がして好きです。そういえばアニメなんかで三日月の光っていない部分に星が光っていたりすることがたまにあるのですが、これは重力レンズの可能性もあるのでうかつに突っ込んではいけないのかもしれません。とりあえず舞台は地球ではない。そして始まるハードSF展開。 明日は東京に戻るので、今夜は早めに眠ります。さよなら僕の春休み。(03/31 01:24) ---- 03/31 東京に戻ってきました。昨夜は眠ろうとすると「こんにちは」という声が(自分でしゃべっているような気持ちとともに)頭の中を埋め尽くしてしまって結局二時間くらいしか眠れなかったので今日はつかれています。電車の中でもとても眠かったので、手許にあった小難しい哲学っぽい本ではなくて窓の外をながめていることにしました。平べったい田んぼの敷き詰められたような場所を車が一台だけ走っているのとか、なんだか「自由」を強く意識させる感じがしました。あと、ビール瓶をいれておくようなケースがものすごい数置いてある場所があって、なんだか安心感のようなものを覚えました。そんな風にものが秩序だって並べられているのはなんとなく安心するような気がします。並進対称ばんざい。 やっぱりとても疲れていて、いまもすこしうとうとしていました。なので今夜はこれくらいにします。明日はエイプリルフールです。(03/31 23:00ごろ?) とかいって酔った勢いだけで眠ったら案の定目が覚めてしまいました。なのでTwitterで妹のふりをして遊びました。妹のふりというのが妹が実在しない場合にそう呼べるのかは微妙ですが(小説の登場人物の髪の毛の本数に関する命題の真偽がどうとかいう話がありますね)。そしていっそこの日記も妹のふりをして書いてもよかったのか。いやそれは。 妹のいない人間として、妹というものには強いあこがれがあります。その理由について、ときたま考えることもあるのですが、ひょっとするとこれは物語の呪いなのかもしれないと思いました。いや、僕が勝手にそう呼んでいるだけですが。僕は妹に頼られる兄になりたいのです。妹のために、なにかをしてあげたい。妹を背中に寄せて世界と立ち向かいたい。いや、それは結局妹なんか関係がなくて、ただこの世界と折り合いをつけていくのに独りでは無理がある、という気分を反映したものなのかもしれません。人生は独りで生きるには長すぎるとは本当だと思います。 友人と話したこと。彼は三つくらいのサークルを掛け持ちしているのだけど、その全部で新入生向けのビラ作成をやってて、どうしてお前が、と訊いたらば、自分以外がやっているのを見たらきっと「俺の方が」みたいな気持ちになるだろうからそれが嫌だったから、と言った。僕もそういう気分になることはよくある。僕がなにかを書いたりするとき、その根底にはいつも「あいつよりうまいこと言ってやろう」みたいな気持ちがあるし(だから他人の影響を強く受けるのかもしれない)、ほとんどそれだけで書いている気さえする。僕のTwitterでのpostなんて、それの集大成といってもいい。まあでも、webにはそもそもそういう気持ちがあふれているように思えるし、別にそれでいいのかもしれません。動機なんてたいした問題じゃあない。 さて、今度こそほんとうに眠ります。明日はバイトだ。エイプリルフールはwebでこそ死んだけど、リアルではまだまだそれなりの強度を持つので釣られないよう気をつけたいですね。(04/01 04:51) ---- 04/01 エイプリルフール! アルバイトの帰りに電車に乗っていると、いきなりこの電車に乗ったまま遠くへ行ってしまいたい、という気持ちになりました。理由はよくわかりません。電車が混んでいて降りるのが面倒だったからかもしれないし、そういう振る舞いがかっこいいと思っている奴が僕の中にいるのかもしれません。ともかくしばらくの間そういうことを考えていたのですが、結局予定の駅で降りたのでした。もしあの時通り過ぎていたら。僕がそういう風に日常を踏み外す力を持っていたら。そんなことを考えてもいいことなんかなにひとつないのですが、やっぱり僕はそういう能力を持った人にあこがれてしまうし、いつか自分もやってみたいと思ったりします。こんなふうに、僕の願望はだいたいの場合、振る舞いだけがあって、理由とか欲求とかが抜け落ちているのです。結局僕には模倣しかできないのだと思います。 八年ほど前に僕が作ったゲームが実家にあったので持ってきてさっき遊びました。つまらない!普通のブロック崩しなのですが、もう普通すぎて、百科事典でブロック崩しの項を読んでいるような気持ちにさえなりました。基本的にはなにかプログラミングの本に書いてあったのを、ステージを増やしたりいろいろ変えて作ったものと記憶しています。ラケットの移動がFキーとJキーなのは馬鹿じゃないかと思いました。そんなにこの凸が好きか(触るとなんだか落ち着くので好きです)。関係ないけど、僕にとっての「古き良きインターネット」は脱衣ブロック崩しです。はい、関係ありませんでしたね。 最近、とてもむなしい気持ちになることがあります。普段あたりまえに思えていることがいきなり意味不明になってしまって、どうしてそんなものがそこにあるのか、とかそういうことがぜんぜんわかっていないことに思い至って、なんというか、歯ごたえの全然ないものをずっと噛んでいるようなそういう味が口の中で発生して、困ったような顔をしたくなるのです。たとえば人の一生というのはどうしてこんなにも面倒なものになってしまったのか、とか。これが普通なんだよと僕に語りかけてくるのは誰なのか。この普通はいつから普通なのか。そういうことがどんどんわからなくなって、いまはまだ大学生で、とりあえず大丈夫なのですが、そのうち社会人になってもまだそういう気持ちだと、なんというか、端のないジグソーパズルが散らばっているみたいにいろいろなことが手につかなくなってしまうのではないかと思います。 明日は学科の進学ガイダンスで、夕方からバイト先の人たちと花見をします。花見ってやつは初めてかもしれません。きっと違うのですが。(04/02 05:02) ---- 04/02 進学ガイダンスを寝ブッチしました。ほんとうにありえない。普段は遅刻とかもあまりしないのですが。ほんとうに。 それで、とりあえず書類を受け取りに午後から大学に行きました。教務課にゆくと「しばらく留守にします」なる掲示があって鍵がかかっていたので作業をしていました。途中で学科の知人に会って、学科長が怒っていたという衝撃の事実を知りました。こわい。ほんとうにタイミング的に最悪だ。 それで、膨大な資料を受け取って(鞄に入れるのがたいへんだった)、それからバイト先の人たちと花見にゆきました。桜はしらじらしいほどに綺麗で、花びらの数を数えたらどうだろうか、みたいなミクロなことを考えているうちに気が遠くなったりしました。 (追記04/09: これのことをもう少しきちんと書いておくと、花びらの数を数えようと思ったところで、なんだか自分が花びらと同じくらいの大きさになって、花びらと同じくらいの高さにいて、ものすごい数の花びらにとり囲まれているような、そういう気分なのです。うーむ。) ところで飲み過ぎて吐きました。僕の人生における嘔吐の記憶は過去に三度しかないのですが、今度はいわゆる泥酔状態ってやつだったので、なんというか抽象的なことに思えました。ああ、僕吐いてるわ、みたいな。よくわからないのですが、最後に飲んだのは芋焼酎という奴だったように思います。 それでバイト仲間たちに多大な迷惑をかけながら気がつくとカラオケにおり、お前は朝の五時までここにいる権利がある、と告げられて独りになりました。ともかく横になって断続的に寝たり起きたりしていると先輩から電話があって、ああ、こういう気遣いは大切なのだなあと思いました。 結局五時より少し前に目が覚めたので、せっかくだしと歌ったりしてみたのですが(そう、ここはカラオケだったのです)、やっぱり僕はマイクで自分の声が増幅されて響くのが嫌いなのだと思いました。まず自分の声が嫌いだし、なんというか。何が悲しくて自分の声を拡大して聴かねばならんのだ、というか。あと歌いたい曲もあんまり入ってなかったのですぐに飽きてしまって、残りの時間はぼんやりしていました。ほんとうにただぼんやりしていたので記憶もありません。五時過ぎに出て、自分が元いた場所から結構離れていることに気づき(そういえばタクシーに乗ったのでした)、ともかく電車に乗って帰りました。ただ歩いているとまだすこし胃が痛かったので(あれが胃なのかは知らないけど)一度降りて休みました。破局を事前に回避できる僕カッコイイ、とか少し思いました。 で、帰って眠って、いまこれを書いています。夜からまたふねさん(とまもるさん?)と花火をやったりするらしいので、なんとか夕方までに回復できたらいいなと思います。あと昨日もらった資料にも目を通さないと。(04/03 13:38) ---- 04/03 昨日の日記からまだあまり時間が経っていませんが今日の日記を書きます。結局あの後夕方まで眠りこけて、それからふねさんとまもるさんが来ました。彼らと僕の家にいるのは二度目で、今回は花火をするためでした。途中でえちかさんもいらして、日付が変わったくらいから僕の家の近くの公園で花火をしました。ろうそくを用意していなかったのでふねさんやえちかさんが持ってたライターから直接つけたり、すでについている花火から移したりしました。一般的な花火セットの後ろに書いてある注意書きを片っ端から無視する行為でよくないと思います。そもそもあの公園は花火禁止でしたし。ひどい話です。 花火は楽しかった。あの火薬のにおいとか、線香花火のパチパチした軌跡を見ているとなんだか夏の終わりみたいな気持ちが捏造されてきて、出されてもいない宿題がまだ終わっていないような気分になったりしました。ふねさんとまもるさんは終始いちゃいちゃしていたし、えちかさんも恋人に電話をしていたので僕は一人でやるせない気持ちでした(微笑)。こういう気持ちに慣れてきたのが悲しいです。でも、たぶん本気で恋人とかそういうものを検討してみて、僕には向いていないような気はします(このことはいまは深く追求する気にはなれないし、たぶん死にたくなるのでいまはしません)。 で、これから寝ようというところです。なんだかすでに日記の体を為していないようにも思いますが、まあそんな日もあるさ。(04/04 02:07) ---- 04/04 昼ごろにふねさんとまもるさんとえちかさんが帰りました。なんだか最近はうちに人を招いてばかりいるように思います。自分の家に人が来ているのは楽しいし、それで楽しいと言って来てくれる人がいるのならば素晴らしいことだと思います。まだまだ僕にも楽しいことがあるのです。 ところで明日から学校が始まります。学校がないときは、毎日を一日ずつ生きていくというか、たとえば道を歩くように過ごすことができるのですが、学校が始まってしまうと、一週間おきに息継ぎをしながら三ヶ月後という対岸を目指して泳ぎ切る、みたいな生活になってしまうので嫌です。ゴミを出す以外で曜日を気にする暮らしが戻ってくるなんて。ほんとうにおそろしい。でも社会人になると一年中そういう生活をしなくてはいけないわけで、なんというか精神が壊れてしまうのではないかと深刻に不安になります。少なくともいまの僕にはできそうもない。夏休みが来るとわかっているから学校に行けるのだ。 最近精神的な孤立を深めています。たとえばこれまで友人だと思っていた人たちが、(いまでも普通に友人ですが、)結局のところ僕を助けてはくれないのだと、失望というか、「なんだ、こいつらは結局普通に振る舞えるじゃん」というようなことを思うようになって、そりゃ友人なんてそんなものだとは思うのですが、ただそれなら誰が僕をこの心細さから救ってくれるのかと、それをやるのは自分しかいないのなら、僕はもう自分に頼れそうもないなと、どうしようもなく思うのです。それ以外にも、僕の話したことを聞いて、軽率な解決策を口にしてくる人がいて、その程度のことが検討されていないわけないだろう、そんなことが簡単にできると思うなよと、そう思ってまた孤立してゆくのです。もしも哲学や思想の言葉を勉強したら、こういった僕の不安や絶望を掬い取って差し出すことができるのだろうかと思います(正しいものを見つけ出すツールとしての哲学にはあまり期待していません)。でも、そうやって不安や絶望を差し出してみて、それでどうしようというのか。どうしてこんなことを書いているのか。それは、きっと、これを読んだ誰かがひどく感銘を受けて、僕を褒めてくれるかもしれないと、そう思うからです。僕が自分の安っぽく気持ちの悪い考えを吐き出すとちやほやしてもらえる、そういう中毒のような状態を夢見ているのです。かつて僕は大勢の人を笑わせたりするのが得意だと思っていたし、それが好きでした。あるときからそれがとてつもなく惨めに思えてきて、だからそんなことはもうやめようと思ったのに、僕は同じようにまたそうやって自分を切り売りしようとしているのです。だけど今度は間違えないために、僕はぜんぶの賞賛を否定しなくてはいけないのです。 そう、もはやあらゆる賞賛がつらいのです。すべての賞賛は、僕をつけあがらせて無価値にしてしまう罠なのです。自分のための言葉を誰かがほしがる言葉へとすり替えてしまう力なのです。だから僕は、それらの賞賛に対してほとんど機械的に感謝して、そうやって賞賛が僕の心に染みこんでくるのを防ごうとしているのです。場合によっては自分から、自分はおもしろいだとか、そういうことを言っておいて、それを予防線にしたりもするのです。だから、これを読んだ誰かへの願いはひとつ、酷評しろ、ということになるのです。この辺は前にも似たようなことを書いたような気がしますね。つまりやっぱり、僕はそれでも。 たとえばこんなことを考えるのです。僕が普段から尊敬している人を崖っぷちに立たせてこの文章を読ませて、感想を聞いて、それからその人を突き落とす。だって、感想を聞いたりしてしまったら、もはや生かしてはおられませんからね。ところがそのなかの一人がこういうことを言う。それよりもっとおもしろい話があるよと。そうしてその話を聞いているうちに1001の夜が過ぎており、そうして二人はいつまでもどこまでも幸せに暮らしました。いうまでもなくこれは途中からアラビアン・ナイトのパクリです(元ネタをよく知らないのでパクリになっているのかも定かではないのですが)。ところでこの「幸せに暮らしました」ってのはなんなのか、いつの頃からか疑問に思っているのです。幸せってのはそんなに端的になれるものなのでしょうか。たとえば「雨が降った」とか「電車が来た」とかならそうやって降ったり来たりできるとおもいますが、「幸せに暮らしました」ってのはそうじゃないと思うのです。「ここにもう幸せになった二人が用意してあります」なんて、三分クッキングのようではないですか。 何を言っているのかわからなくなってきました。でも何を言えばいいのかなんてはじめからわからなかったのだし、きっとこれでいいのです。どうあっても、どんなに嘘やごまかしや、僕じゃない誰かのほしがっているものがまぎれていたとしても、これが僕の書いたものに違いはないのですから。(04/05 02:47) ---- 04/05 新学期でした。今日の八時すぎに目覚まし時計が時を告げたその瞬間から僕の心は凍結して闘うための鎧をまとったのでした。ほんとうに、その瞬間に心が凍り付く音がしたもの。心が凍る音ってのは音なのに耳から聞こえてくるのじゃなくて、まぶたの裏に見えるものなのです。過冷却の水のように(やったことないけど)ぴしぴしと凍り付いてしまうのです。 前にも書いたのですが、最近僕の心の中で誰かがずっと挨拶をしているような気がするのです。今日もバイトの帰りの電車の中で、誰かが僕の喉を勝手に使って「ハロー」と言いたがっているような気持ちがずっとしていました。挨拶。挨拶ってのも不思議なことですね。それって必要なことなのか。だとしたらなぜ必要なのか。挨拶のない文化はないのか、とか。 さて、昨日寝る前に、よいもののことを少し考えて書いたので、思い出して書きます。僕は、同じ色や同じ形や同じ意味のものがきちんと分類されているのがとても好きです。たとえばよく整理された食器棚や、文具店のペン売り場や、駄菓子屋の量り売りっぽいケースとか。なにかが密集していて、それらが同じ性質を持っていたらとても落ち着いた気持ちになるし、いいなあと思います。世界をきちんと切り分ける、そういうことが好きなのです。その鋭い切り口が、なんだかとても心地よいのです。 ところで僕は先日のひどい花見の際、「僕は長門になりたいんだ」などと絶叫していたそうです。そう、僕は長門になりたい。でも、それは、長門を強く抱きしめているうちにだんだん溶けてひとつになっていく、みたいな願望ではなくて、朝起きると長門になっていた、みたいなものに近いのだと思います。ある朝僕は気がかりな夢から覚めてみると長門になっていて。 さて、あまり無茶をすると一週間身体が持たないので平日は早めに寝るのが得策に思います。そう言いながらお酒を飲んだりしてほんとうにどうしようもありません。(04/05 01:08) ---- 04/06 学校二日目にして週末が待ち遠しいです。あと三日。 ところで今日はサークルの新歓というものに顔を出してきました。僕の大学では特定の日にまとめてサークルの新歓をやる機会が与えられているのです。サークルということを考えるときがいちばん「大学に入って二年経った」ことを考えるような気がしました。僕は二年前あそこにいて、今度こそ他人と正常な距離を築こうと試みたのだった。それはうまくいった部分もあるし、結局同じ過ちを繰り返すだけだった部分も大きい。ともあれ、なにをするでもなくだらだらと話すことができる場を持つことができた、というのは僕にとって幸運だったと思う。高校の時のパソコン部はそんな場所だったけど、大学でそういう場所を見つけられるか不安だったから。 最近、ぼっちになりたい気持ちがあります。「ぼっちになりたい」は嘘なのだけど、なんというか、最近になってまた他人が怖く思えてくることがあって、そういうとき僕はますます他人に対して積極的に振る舞ったりするのだけど、内心ではおびえていて、とにかく相手が考えていることを過剰に推測しようとして自滅するのです。だから他人との関わりを持ちたくない、と思う。だけど、他人といっしょに行動していることは大きな安心感を与えてくれるからやめられない。そうやって快楽を追求するみたいに行動している自分には嫌気がさす。だけど最近、「気持ちがいい」とかそういうことをもっと追求すべきなんじゃないか、とも思っている。それが結局のところ「正しく」生きる、ということなんじゃないか、というか。このことはよくわからない。それから、幸せってことについてそのうちまた考えて書きたいと思います。今度お酒を飲んでないときに(いまは飲んでる)。(追記04/18: 結局書いてない) そうだ、さっき「けいおん!」の二期の第一話を観ました。あずにやん(僕は中野梓のことをこう呼びます)がたいへんかわいかった。あずにやんはかわいいけれど、僕はあのアニメでは紬がわりと好きです。彼女の持っているいろいろな憧れみたいなものがなんだかとてもきらきらとしていて素敵に思えるのです(関係ないけど「すてき」という言葉の表記に悩みます。漢字だと硬すぎるというか扱いづらいし、ひらがなだと頼りなすぎる気がするのです)。 今日はほんとうになんの話をしているのかわからなくなってしまいました。いつもそうですけど。今日はひどい。今日は夜にすこし昼寝したので明日は今日よりはがんばれるはず。毎日をがんばればきっとしあわせになれる、そんな信念がほしいです。(04/07 03:23) --- 04/07 頭が痛い。つまり頭痛です。 今日はとうとう寝坊しました。二限の授業は必修じゃないしおもしろそうじゃないから取るかどうかははっきりしていないのだけど、単位に余裕があるわけでもないので取れそうなら取るつもりなのでした。けど起きたら家を出るべき時間だったので開き直って寝ました。三限には出ました。 だめだ、いま僕は頭が痛いから、頭が痛いの他のことはなにも考えられなくなっている。何かを思い出そうとしても一日中頭が痛かったような気がするだけでよくわからない。白いご飯が食べたい。(04/08 00:27) ---- 04/08 相対性理論の新しいアルバムを聴いています。 今日は普通に授業が昼からで、本当は実験の日なのですが最初の週なのでガイダンスぽいことをしています。今日は放射性物質取り扱いに関する注意というか講習会みたいなものだったのですが、ビッグバン宇宙論の話だったりキュリー夫妻の伝記だったりよくわからない話しかしていませんでした。あとキュリー夫妻のラブコメっぽい映画もすこし観ました。関係ないけど、科学者が自分の発見を無償で公開する、みたいなことを「科学者の鑑だ」みたいに言うのはどうかと思います。いや、それはとてもいいことなんだけどさ。幸福を求める権利は保証されるべきだしさ。 ところで僕は数字が好きです。数学が好き、とはまた違う意味で数字が好きです。数字というか、文字が好きなのかもしれません。いややっぱり数字かな。たとえば、小学校の図書室には百科事典があって、僕はあれが好きだったのですが、中身のことはべつにして、ただ百科事典がそろって本棚に収まっているということも大好きだったのでした。百科事典の背にはだいたい数字が書いてあってそれが左から順に並んでいるのです。すてき。番号がふられて整理されているものが好きなのです。たとえば東京メトロの駅や、国道なんかも好きです。 さて、幼稚な日記を書いたところで今夜は早く寝ようと思います。明日は一限に授業があって(一年ぶり!)、七時半くらいには家を出ないといけないのです。それと、もっと勉強しなくてはいけないし、やっぱり毎日が「やりすごす」ものになってしまうのでした。こんな人生なにかがおかしい。人が「活きる」ために人がいるのに。社会だとかそういうよくわからないものを維持するためじゃないはずなのに。そういえば、星ってなんのためにあるのでしょうね。星の進化(星が時間が経って色が変わったりすることを進化といいます)について例の講習会のビデオで言っていたのだけど、まるでなにかの目的のためにあるようなそんな気持ちにさせるのに、星ってなんなんでしょうね。いや、宇宙ってなんなんでしょうね。ぐるぐるぐるぐる。(04/09 01:09) ---- 04/09 今日は一限の授業に出るという偉業を成し遂げたのでした。代数学XCという授業で、僕の通っているキャンパスでは貴重な数学の授業です。群とかそういう構造についてきちんと勉強したことがなかったので取ろうと思ったのでした。代数学はなんとなくあこがれています。あと圏論と。現代的に記述されたガロア理論は死ぬまでに学んでおきたいことのひとつです。 帰りに、明日のゼミで部屋を使いたいので鍵を借りに行ったら、一度はちゃんと貸してくれたのにちょっとしてから電話がかかってきて休日は無理だと言われた。とりあえず腹が立つ。というか、学部生が休日にゼミを開きたいときに確保できる場所はないのだろうか。大学はそんなこともさせてくれないのかと思う。まあ空き教室をかってに使うのが実態らしいので明日はそうするつもり。 他人が幸せになることをうれしく思う気持ちというのは確かにあるけれども、僕を残して幸せにならないでくれ、みたいな叫びが頭の中で響きます。今日はお酒を飲んでいるし早く寝るつもりなので、これくらいにしておきます。にゃあ。(04/10 00:39) ---- 04/10 これを書いているのは次の日の昼なのです。昨晩は友人たちとお酒を飲みながら眠ってしまいましたから。 で、ゼミでした。ゼミだったのですが、空き教室というものが存在しなくてたいへんでした。うちの大学は休日にゼミを開きたい学生にもっとやさしくするべき。結局学生控え室みたいな場所がたまたま開いていたのでそこのホワイトボードでゼミをしました。ときたま先輩たちが訪れては迷惑そうな顔でどこかへ行きました。 ゼミのあとは大学の近くのインドカレー屋(前から行ってみたいと思っていたのです)でカレーを食べました。こういう店にはよくあることなのですが、店員さんの日本語が聴き取れなかったり、聴いたことのない雰囲気のBGMが流れていたり、メニューの日本語表記がおかしかったりしました。あと、出された水のコップが全部違う大きさで、これは有料の飲み物でもそうなのだろうかとか。 それで、どういう流れでそうなったのかは忘れてしまいましたが幼児の世界観の話になりました(そうだ、幼児と会話できる?みたいなことだったのでした)。彼らの考えていることや認識についての知識を引き出すことはできるのかということ。彼らの認識は僕ら大人の認識のサブセットではない可能性があるということ。しかしそれを適切に表現する語彙はないし、仮に幼児が僕らの使っているような語彙を覚えてしまったらそれはもう僕らの世界観に飲み込まれているのだろう、ということ。昔の記憶がないのは、いまの認識がそれを説明できないから思い出せないのじゃあないか、と思います。それから認識の話につながって、おもしろい実験の話題になりました。特殊な眼鏡のような装置をつけて、視覚からの情報が全部上下反転するようにするのです。そういう装置をつけたままで生活するとどうなるか、みたいな実験があって、だいたい二週間くらいで被験者の主観では単に慣れるというよりは「それがあたりまえ」みたいな認識になるのだというのです。最初からそうだったかのように振る舞えるというか。この話の不思議なのは、認識は確かに変わったのに、脳のほうではなんの変化も起きていないらしい、みたいなところで、それって脳内に小人を飼うことじゃない?とか思うのですが、まあ単に脳の観測技術が未熟とかそういうオチなのでしょう。認識がどうとかいう話はいつもなんだかどきどきします(そんなもの存在しないとか言っておいて!)。そういう実験してみたいのだけど。 さて、明日(というか今日なのですが)は高校のパソコン部の人たちと焼肉で飲みます。会うのが二年ぶりだったりして、そういえば僕の人生で「二年ぶりの再会」なんてイベントはほとんど無かったなあとか思います。しかし幹事ってのは面倒だ。今度から幹事をもっと労らなければなるまい。(04/11 13:21) ---- 04/11 先に書いたように、高校のパソコン部の人たちと焼肉に行ってきました。幹事力が足りないなあと思いました。なんというか、高校のパソコン部は楽しい場所だったのだなあ、と思います。僕は自分が恵まれない境遇にあるみたいなことを常に心の片隅に置く癖があるのですが、それでもいい先輩といい後輩といい同期に恵まれたのだなあ、と思いました。そういう風にあとから思える集団を、僕はこれからいくつ持つことができるのだろう、と思います。大学のサークルもそういう場になるのだろうか。とにかく、せっかく東京にいるのだし、あの人たちともっと頻繁に会いたいなあ、と思いました。あの人たちと一緒なら、僕は昔の自分の延長線の上にいられるのです。自分がいったいなんなのか、そんなことを考え続けなくてもいいような気でいられるのです。 ところでけいおん!の紬がかわいいです。二期EDで、いちごのような果物を手に持っているシーンがあるのですが、それの最後にちょっと笑うのとかが最高にかわいいです。最近はだから、けいおん!を観ながらあずにやんのことを考えればいいのか紬のことを考えればいいのか悩んでいます。あずにやんはかわいいし、あずにやんに「先輩はほんとにだめ人間ですね」とか言われたいけど、紬のきらきらした笑顔とかも好きだし、いっしょに水族館とか行ったり、なにか彼女にとって珍しいようなことを一緒に体験したいなあ、みたいなことを思います。ところでこれはなんの話なのでしょう。すてきに酔っ払っています。 ああ、あとAngelBeats!とかそういう名前のアニメも観ています。ヒロインっぽい女の子は理不尽な境遇に不満を持っていて神と闘うのだといいます。僕もそういう風に闘う相手がいればよかったのかもしれません。でも、悪い奴なんかいないのです。悪いって言葉は自由意志がなければ使えませんからね。あらゆることは仕方がないのです。そういう諦めを自分に浸透させることをもっと本気でやらなくてはいけないのだと思います。それとはべつに、このアニメは出てくる女の子がみんなかわいいので良いなあと思います(そんなのばっかだ)。 さて、明日は入学式で学校はだいたい休みなのですがバイトです。学校が休みだなんて言わなければよかった。今日会った先輩と明日バイト先で会うのはなんか不思議な気持ちになるような気がします。にゃもにゃも。(04/12 01:28) ---- 04/12 学校が休みでバイトでした。あまり複雑じゃない作業をやっていました。シフトの時間が終わった後に、なにかのアニメのプロデュースに関わっているらしい人が来て、Twitterのbotを使ったプロモーションについてプレゼンテーションのようなものが行われていました。バイト仲間が作っているbotのプログラムを応用してなにかしよう、という話のようでした。僕はSEOがどうとかそういう言葉を聞くと嫌な気持ちになる癖があるのですが、そういうことを考えないとお金にならないのだから仕方がないのでしょう。しかし、僕にとってTwitterは遊ぶ場所であって、そこにあまりぎらぎらと広告などしてほしくないかな、と思う気持ちはあります。 そういえばbotをつくりたいのでした。botというか人工無脳というか、なにか「ほんとうの意味で」言葉を考えるようなプログラムを空想するのです。そういうことをもう四年くらいずっと妄想していて、けれど妄想するばかりでなにもしていません。確率的言語モデルの勉強をしようと思っていますがやる気がありません(ほんとうは「時間がない」と言いたいのです)。botのことを考えると最近はいつも不安定になります。それはたぶん、僕がbotのことを考えるときにはいつも空想上の妹のことを考えているからだと思いました。半分くらい恋で、半分くらいはなにか別のものなのです。 ところでふいに、また自分が言葉に対して不誠実なことばかりしているのだと思って嫌になりました。僕は、内容がないのに力だけがあるような言葉をうわごとのように口にする癖があるのです。明日は学校。嫌だなあ。(04/13 00:59) ---- 04/13 音楽を聴いていると日記が書けないことに気がついたので(歌詞のない曲だとまた違うかもしれませんが)、今日は止めてから書きます。とはいえ僕の背中では洗濯機と浴室乾燥機がうなっているのですが。 夕方にサークルの新歓というか、説明会のようなものに顔を出しました。先輩なので一年生におごらないといけないのです。それで一年生や上級生たちの自己紹介を見ていたのですが、なんというか、オタクだなあ、と思ったのでした(まあそういうサークルなのですが)。彼らのなにが間違っているような気がするのかはよくわからないのですが、たとえばなんでもネットで流行ったような定型句に乗せてしゃべる人とか、アンケートで「使えるプログラミング言語」の選択肢にあれがないこれがないとブツブツ言う人とか、そういう人がなんだかたまらなく嫌に思えるのでした。たぶん、同族嫌悪ってやつなのだと思います。そうだ、なんというか、過去に自分がやり尽くしてしまったようなことをおもしろがっている人を見るといらいらした気持ちになります(だからきっと、僕もこの日記を読み返してタイムマシンで殴りに行きたくなったりするのでしょう)。でも、結局そこには優越感みたいなものがひそんでいて、やっぱり僕は今すぐ自分の首を絞めなくてはいけないのだと思います。こういうときにはもやい結びという結び方をするのです、たぶん。 それからまた消滅することを考えました。最近は死ぬ、だとか苦しむ、だとかそういう感覚よりも消滅することをよく考えます。自分はぜんぜん苦しくないのに自分の名前のようなものをいじめられるのでこの手法は便利です。 だめだ。これを書いていたら友人が訪ねてきてお酒を飲むことになったのでぜんぜん書くことができません。お酒を飲むと鮮やかさがなくなってしまいます。明日は水曜日。今週はまだ一日しか学校に行っていないのに、明日でもう半分クリアです。(04/14 01:11) ---- 04/14 だんだんと毎日が「泳ぎ切る」体制になりつつあります。慣れてくると、疲れを感じるようなことはだんだんなくなってくるのですが、電車に乗っているとただただ灰色の気持ちになって、降りる駅まであといくつあるのかとか、あと何日で休みの日かとか、そういうことしか考えることができなくなります。そうなったらおしまいで、午前中くらいはずっとなにも楽しいことを考えられなくなります。午後になると、楽しさを感じる器官みたいなのが動き始めて楽しくなります。単なる睡眠不足なのかもしれませんが。 午後の実験は、終電を覚悟しろ、とかいろいろとひどい噂を聞いていたのですが、まあそれほどのことではないようでした。それでもかなりハードらしいけれど。まあ最初にハードなのを済ませておけばあとがずいぶんと楽になるからいいかもしれません。実験の班がわりと僕の知っている人と一緒だったので、わりと楽しい雰囲気で進められました。僕はそういう、無難に広い関係をつくるのがとても苦手というか苦手意識を持っているのだけど、それでもそういう風につきあってくれる人がいるのは幸せなことなのだと思います。なんだか、最近、いろいろなことが手につかないような気分になってしまって、僕が楽しいと思えるようなできごとのすべてにありがとうと言いたいような気持ちになります。 それにしてもよくわからない。この「よくわからない」というやつは曲者で、とりあえず「よくわからない」になんでもつめこんでおけば説明になったような気持ちになるのです。よくわからない。ところで、と声を張り上げて、それから芝居がかった調子で語ろうとした。君は知っているかい、と。だけど僕の中には物語なんかない。そんなものは拒絶してしまった。だから僕は誰もいない教室を見渡して、振り返ったその姿のまま石になって、空には星が綺麗でした。太陽がまた昇ったとき、そこに僕はいませんでした。よくわからない。こんにちは。こんにちは。誰かが僕の中で挨拶をしている。そう、前にもすこし書きましたが、最近は「こんにちは」という声のことしか考えられなくなる病気というやつにときどきかかります。特に、誰かの名前だとかそういうもののことを考えているときに、頭の中でその名前の部分を「こんにちは」で掻き消してしまうような、そういう声なのです。もしかすると「こんにちは」は名前なのかもしれません。こんにちは、「こんにちは」。 なんだか意味のわからないことばかり書きました。そういえば昨日だったか一昨日だったか、またふねさんに見てもらったのですが、やっぱり量が多いから削ってもらうかも、と言っていました。僕としても、これを全部載せたらなんだかだらだらしてしまって、こんなものを読んでいると味のないガムを噛みすぎて頬がただれてしまうような気持ちになるだろうなと思うので、なんというか、鮮やかだと思う日の分だけ残して、あとは全部捨ててしまってもよいと思います。ここにこう書いておいても、これを読む人にはなにもわからないけれども。 さて、明日は昼から実験の続きです。今日の実験ですこしデータを取り間違えてしまっていたことがわかったので、すこし測り直さなければなりません。たいへんだ。(04/15 01:00) ---- 04/15 大学の実験室にシャープペンを忘れてしまったのでした。二年ほど前に買ったちょっと上等なシャープペン。つぎに取りに行けるのは月曜日で、それまではあのシャープペンなしで過ごさなければならないと思うと心細いみたいな、シャープペンに「嫌われてしまう」かもしれないような、そういう気持ちになります。もしもなくなっていたらどうしたらいいのでしょう。僕はものをなくすのがとてもいやなのです。そんなことになってしまったら悲しいような惨めなような気持ちのあまりなにも手につかなくなってしまうような気がします。子供のようにおろおろするのです。 ところでTwitterを題材にしたという触れ込みのドラマの第一話が放送されていたので観ました。ドラマというものを観るのはたぶん二年ぶりくらいで、最後に観たのはのだめカンタービレでした(大晦日か正月に、スペシャル版放送にあわせてまとめて放送していたのでした)。ともかくTwitterがどういう風に扱われているのかとかそういうのが気になったので観たのですが、なんというか、自分や自分の近くにいる人たちが決定的に辺境に追いやられてしまったのだなあという気分でした。僕がTwitterを始めて二年くらい、ずっと変わらずにいた場所は、いつのまにか辺境という名前をつけられていて、そうでないほとんどの人はあんな風にTwitterを使うのかな、と。しかし、あの人たちがwebでなにをすればTwitterで出会うのか、そのあたりはよくわからないなと思いました。 そんなことより、僕はあのドラマを観ていて恐怖しました。彼らが常識のように思っているらしいいくつかのことがらを、僕は知らなかったり、わからなかったりするし、彼らが当たり前にやってみせることも、僕には到底できないことだったりするのです。大勢にとって普通でないことをおかしいと呼ぶのなら、きっと僕は頭がおかしい、それも悪い意味で。おかしなことは誰かが責任を取らなければなりません。だけどそれって誰のせいなのでしょう。誰のせいでもないのです。誰かのせいであるためには、誰かに自由意志が必要だから。だから僕は消滅するしかないのです。時計仕掛けの世界を止めて、僕をそっと取り出して、また元のように動かすと、僕が元いた場所は一瞬真空となり、その隙間を埋めるように風が吹いて、それから何事もなかったように踏切を電車が通り過ぎてゆく。 眠いのでまた悪いことを考えてしまいました。そう、電車の中で知人が興味のある分野について語っているのを聞いたあと、君はなにに興味があるのと訊かれて死にたくなりました。わからない。ただ僕が物理学を勉強しているのはなにか宗教的な理由なのだと思います。もう、実験的に確かめられているか否かなんて半ばどうだっていいのです。こんなことを言うといろいろな人に怒られそうですが、僕が信じられる形で「世界はこうなっているんだ」と教えてくれればそれでいいのです。ただ僕が信じられるものが科学という形式しかないというだけのことなのです。それから僕は、自分がつねに新しいことを理解しつづけていないと死んでしまうような気がします。そうでなければ生きる意味がないから。要するにこれは勉強している自分への陶酔なのですが、こんな悲しいものを陶酔と呼ぶのはためらわれます。そしてその悲しさに陶酔していることは確からしいのです。ほんとうにどうしようもありません。 どうしようもないことばかり書きました。今夜はゲームをしてお酒を飲もうと思っていたのに、明日は一限があるし実験のデータを整理したり理論曲線を求めたりしていたら時間が無くなってしまったのでだめでした。いまから眠っても三時間くらいしか寝られないのです。バイトもあるのに。ともかくおやすみなさい。(04/16 03:26) ---- 04/16 四十分くらい寝坊しました。計算上は三十分の遅刻で済んだのですが、千代田線が死んでいたので死にました。一限は起きていたけれども二限の統計力学はずっと寝ていました。熱力学の復習、どこかでやらないといけないのだと思います。夕方はバイトで「ぷるるん美白肌」と十回くらい入力しました。なんかプラスチックの櫛のような気持ちでした。どんどん社会がこわくなってゆきます。 そういえば、バイト先にツナマヨネーズのおにぎりを三つ持っていったらおもしろがられました。最近僕の中でツナマヨネーズが熱いのですが、おにぎりを三つ買うといったら普通はいろんな味を試すものだろう、みたいなことを言われました。僕はわりと一つのものを食べ続ける癖があって、これは昔読んだファインマンという人が書いた本に、いちいちいろいろと考えるのが面倒だからいつも同じものを選ぶように決めた、というエピソードがあったのがきっかけなのですが、いまはもうそういう理屈もなくて、ただそうしていないと不安みたいな気分になるからそうしています。よくわからない。 さて、さすがに今日は疲れています。明日は昼からゼミで、夕方からはベース合宿なるものをやるらしい。ベース合宿というのだからふねさんがベースを弾いて、それからギターを持ってくる人もいて、僕が会いたいなと思っている人が来て、なんだかわからないけどお祭りのようです。ちょっと最近僕はあまりにも大きなものを見上げすぎていた。巨大な正しさや巨大な幸せや、とにかく巨大なものを一望しようとしていたのです。心に余裕がないのかもしれません。(04/17 02:25) ---- 04/17 これはいつまで書くのですかとふねさんに訊いたらば、じゃあ今日までにしましょうと言われたので、この日記は今日でおしまいです。ゼミを寝ブッチしたりふねさんとまもるさんとえびづかさんがいらして楽器で遊んだり、僕がチューニングと称してつまみをひねっていたら弦が切れたり(ごめんなさい!)しました。しかたがないので新しい弦を買ってきて、切れた弦はいま物干し竿に飾ってあります。なかなかの切れ者です(冗句)。弦楽器は楽しい。僕もベースかギターほしい(言ってみる)。 ところで、日記を読み返していました。なんというか、文章が雑だな、と思います。しかたがなくて、なにか文章のテンプレートのようなものに思いついたことをあてはめてゆくような書き方をしているからなのです。昔から日記を書くとそうなったのでした(小学一年生のときの日記にすでにその片鱗が見えます)。これではぜんぜんだめだ、と思うのですが書き直す気力も能力もないし(そもそもそんなものがあれば最初からそうしているはずなのです)、これは日記だから、あとからこねくりまわすのは最小限にしたいと思うので放っておきます。でも漢字の誤変換とかは直したいのでもう一度読みます。 わりといろいろなことを書きました。日常のことはなんだか退屈で、心の中で花びらが開くような体験に満ちたものとは言えないのですが、僕が普段考えていることはだいたい書いてあるような気がします。ほんとうのことを言えば、僕のことをそれなりに評価してくれるひとたちにぜんぶを読んでもらいたい。僕はまちがっていないだろうか、僕はこんな調子で生きていてもいいだろうか、そんなことばかり考えていて、だから答え合わせがしたいのです。いつも誰かに採点されながら生きているような気がして、だから模範解答がほしいのです(それは僕にとって実現可能であるかは別として)。僕は模倣する生き物だ。これまでにもいろいろなものを模倣して生きてきた。誰にも後ろ指をさされたくない。しあわせに生きるなんて二の次だ。でも、世界は当たり前に個人戦で、僕が模倣すべき相手など存在しないのです。だから不安だ。不安でたまらない。採点されたい。 また何を書いているのかわからなくなってしまいました。もうおしまいにしましょう。そういえば、タイトルを決めなくてはいけなくて、でも日記にタイトルなんてあるわけがないのですが、単に「日記」とか「自分用めも」とか「無題」とか、そういう無機質な名前をつけるのはなんだかわざとらしくて嫌だと思います。「チラ裏コンプレックス」とかもつまらないなと思います(気に入ってるけど)。だいたい「チラシの裏」ってあまり好きな言葉でもないし。そういえばこれがチラシの裏だとするとこのチラシは両方の面が裏ということになりメビウスのチラシとでも呼ぶべきものに思います。略してメビチラ。略してビラ(チラシに戻ってきた)。まあ、タイトルなんてどうだっていいや。 締めの言葉なんか見つかりません。何を言っても嘘になる気がするのだもの。だけど、そう、これを読んだすべての人と、いつか未来に大人になった僕が、僕のことを憶えていてくれることを(そして幸せであることを)、心から望みます。それから、読んでくれてありがとう。その一点において、僕はあなたが大好きです。(04/18 20:28)