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僕が幸福になるためにはものすごい幸運に恵まれるか僕が信念体系を変更するかしか手段が残っていない気がするのだが、前者は望み薄だし、後者はアイデンティティにかかわる。
ものすごい幸運よ、来たれ(でなければ、甘き死よ、来たれ)
お昼に起きて本を読み、夜はaとßと夕飯を食べました。お魚。おいしかった。途中で具合悪くならないか心配だったけど大丈夫だった。行く前はけっこう具合悪くなっててこれはやめたほうがいいのではと思ったのだけど、行ってみたら案外元気で、しかし戻ってみると微熱らしく、よくわからない。無事にやりおおせたという安堵感だけがある。
fが東京に戻っているよと話したらじゃあ今度みんなで飲もうということになった。楽しみ。でも僕とaとfでどんな話をするのかいまいち想像がつかないよね。
頻繁に具合が悪くなるのは心因性なのではと最近は疑っている(特に人と会う約束の前にひどくなる傾向があるし)のだけど、実際に会ってみるとそれなりに元気になることとどっちが気のせいなのか僕には判別がつかない。僕の身体はいったいどうなってしまったんだろう、僕はもうわからない。病院に「どうなってしまったのかもうわからなくなってしまった科」みたいなのがあれば行くのにと思う。自律神経失調症というものがあるらしいと最近知ったのでそれを疑ってはいるのだけど、この病名は日本以外ではあまりメジャではないらしいので、実在するのかよくわからないと思う。
世界は気から。
微熱があるのはなんなんだろう、風邪なのだろうか。あまり風邪という感じはしないのだが。ただちょっとふらふらする(のが気のせいなのか、しかし「ふらふらする」ことに気のせいもなにもなかろう、とも)。髪が乾いたら寝る。それまでは本を読む。「エピローグ」、ものすごい勢いで途方もない概念が繰り出されてくるのでわけがわからなくなっている。これに追いつけるのはいつのことになるやら。
「大人になる」ことの一部は、道徳を適切に身につけることと同義なのだが、そのやりかたとして、それを天与のものとして自然に自明に感じられている「ことに気づく」人と、なんとか正当化する術を見出す必要があった人とがいる、ような気がしているのだが、前者なんて実は存在しないのかもしれない、とも思う。
道徳は本当は天与のものであると信じなければならない(正当化が可能であっては意味がない)もので、だからその正当化云々についてあからさまに語ることは不道徳なことだ。それでもその正当化が必要な人がいて、あからさまに語られることのないその正当化を探す必要がある、のだと思う。