0611
体調は改善していません。なんか首筋も腫れてきたし(前からか?)。熱はないのだけれど(でもすこし高め。36.7℃とか)。来週半ばに仕事の打ち上げがあるらしいのだけど、出られるのかしらん。
仕事は順調(とは言えないか)。土日は出なくて良さそうな雰囲気なので、土日でゆっくり回復したい。そんな願いが叶ったことなど一度もないような気はする。
今夜も髪が乾くまでアニメとか観て、それからゆっくり寝ましょう。
体調は改善していません。なんか首筋も腫れてきたし(前からか?)。熱はないのだけれど(でもすこし高め。36.7℃とか)。来週半ばに仕事の打ち上げがあるらしいのだけど、出られるのかしらん。
仕事は順調(とは言えないか)。土日は出なくて良さそうな雰囲気なので、土日でゆっくり回復したい。そんな願いが叶ったことなど一度もないような気はする。
今夜も髪が乾くまでアニメとか観て、それからゆっくり寝ましょう。
すこし遅く起きて会社に行ったのだけど、行く途中でひどく気分が悪くなってしまって、とはいえ行けばそのうちなんとかなるだろうと思ったのだけどぜんぜん良くならなくて、これは参ったやっぱり帰るか、というところでロキソニンを飲んだら改善したので結局仕事をしました。なんだこれ、この三日間の僕を支えていたのはロキソニンの解熱作用だったというのか。まじかよ。無理させてごめんな……。
仕事はまあ具合悪いなりに順調。Apple Watch対応など。これの検証は最終日にやる予定なので、土日に作業する必要はなさそうです。ゆっくり休もう。
ユーフォ八話からずっと心の中に埋まっている「特別になりたい」について。
高校時代の僕は、「自分が特別だと思ってるだけの奴」だった(それ以前には、「特別さ」への渇望から来るマジモンの黒歴史が横たわっている)。高校で出会った友人たちと雑談する廊下は、世界で一番おもしろい場所なんだと思っていた。それは紛れもなく、自分は特別だという無邪気な思い込みで、それが思い込みに過ぎないところまで含めてありきたりなそれだった。その思い込みは大学に入ってから徐々に色褪せて、四年生になるころには完膚なきまでに打ちのめされて、そしてもう戻ってはこない。
でも、今はもう、そういう渇望みたいなものは感じない。僕は集団の一員として特別であることはできなかったけれど、僕が僕であるということは僕にとってのこの世界において、圧倒的に、どうしようもなく、特別なことなのだ、という理解が僕を支えている。僕は初めから特別で、しかもそれは僕が僕であるというだけで特別なのだ。このひどく陳腐な確信に至るまで、何年掛かったか知れない。きっと初めから知っている人もいるのだろう。でも僕には独我論や自由意志なんかを経由する回り道が必要だったし、それは無駄ではなかったとも思う。
体調は良くなりません。喉の痛みは右から左に移ったあとまた右に戻ってきつつあります。なんだお前。この家の敷居は跨がせんと言ったはずだぞ。
熱は微熱以下の状態が続いています。あ、でも今計ったら37.0だった。まじかよ。勘弁してくれ。
午後に起きて、JavaScript開発のことをちょっと調べていました。昔作ったTwitterログ表示サイト( http://logt.necocen.info/ )を作り直したいという気が起こったのです。あれはNode.jsとAngularJSで作ったけれど、せっかくなのでもっと今風に、CoffeeScriptとReact.jsでやってみようと思っています。TypeScriptと迷ったけど、CoffeeScriptは何度か使ったことがあるし、型はないけどあの文法はわりあい好きなのでこうしました。ローカル開発環境も整えたし。こんなことしてるから具合よくならないのかな。でも横になっててもぜんぜん眠れないし、気分が塞ぐばかりなんだもの。うう……。
でも今夜はアニメだけ観たらおとなしく寝ようと思います。そろそろ治ってくれないと本当に困る。すでにだいぶ困っているけれど。
昨日の日記を書いていなかったことに今更気づいたので書きます。まじか。こんなの初めてだ。
昨日はだいたいずっと横になっていました。具合はわずかによくなっているような気もしますが、喉の痛みはあまり変わっていません。WWDCのセッションをいくつか観ました。登壇者がSummaryのところで「野菜食べろ(Eat your vegetables.)」とか言いだしたので笑いました(ちょっと検索した限り文字通りの意味に間違いなさそうです)。
あとReact.jsの勉強に入りました。とりあえずCoffee+JSXなトランスパイラを見つけられたのでそれで書き始めています。まだありがたみとかは不明。
昨日の日記の件はびっくりですね。特段忙しくしていたわけでもないのだけど。
具合はわずかに改善傾向。喉が痛いのはあいかわらずだけど、熱もだいぶ落ちついたし、具合悪い感じはだいぶ減ったように思います。ただちょっと頭が痛い。新キャラだ。今夜も早く寝ましょう。
仕事は順調。不具合対応はこまごましたものばかりだったのですぐに片付いて、暇を持て余したのでWWDC観たりしていました。WWDC、全体的にカメラワークが去年までと違うような気がする。具体的にはスライドではなく登壇者や聴衆を映している時間が長い(比較したわけではない)。僕としてはべつに登壇者や聴衆を観ても理解は深まらないので、なるたけスライドを映してほしいという気はする。ここまで書いて全部気のせいだったら恥ずかしいなと思う。去年のWWDC、たくさん観たけどそんなこと覚えてないしな。
NSOperationを縦横に使う話はおもしろかった。UIの操作にも使えるって初めて気づいたし、それでアラートの排他制御するとかクールだと思う。でも今の案件には導入できないかなー、他の部分と馴染まない気がする。NSURLSessionがあるからWebAPIとの通信に使うってのも微妙な気がするし。でも考えがいのある問題だ。
明日もたぶん暇なのでAutoLayout絡みのセッションでも観ましょうかね。それとももう次バージョンの検討かしら。仕様とか工数とかぜんぜん聞いてないけれど。
今夜も髪が乾き次第寝ます。それまでReact.jsをいろいろ試す。
h.b. > a
昨晩はtwlgをReactで動くようにしました。とりあえず今の機能は再現できたので、あとはクローラを書けばとりあえずデプロイできるようになります。あとCSSをsassだかlessだかにしたい想いはあるけど。今夜時間あるかな、WWDC一本観ようと思ってるのだけど。
お昼から仕事。不具合対応など。あと予定前倒しで申請作業。だからといってその分暇になるわけでもないので(まあ今は暇だけど)なんかそういうのって常態化させたくないなーという感じがあります。もっと不具合を用意しておけばよかった。
あとはSwift2勉強会の準備をしました。せっかくなのでPlaygroundで資料を作ってみようと思っています。いまのところはまあまあ順調だけど、これ量が増えても大丈夫なのかな。あと発表中にクラッシュしたら困るかも。まあハイライトが出ないくらいなら問題ないけど。
さて、明日はプロジェクトの打ち上げです。打ち上げと言っても何が終わるわけでもないのですが。はあ。
朝起きたら異常に具合が悪かったけど、熱は全然なかったので会社にゆきました。その前に病院も行ったけどこれは定例。Twitterに書いたら気圧のせいじゃない?って言われたけど、これまで気圧のせいでこんな風になったことなかったし、よくわかりません。でも気圧のせいだったらどこか壊れたわけでもなさそうだし、そうだったら気が楽かなという気はします。参るけど。
仕事は次バージョンの検討。課金まわりは経験が無いので下調べから。課金処理自体は異常系がしんどいなあというだけっぽいけど、データの保護とかちゃんと考えないといけないのが大変そうかなあ。明日にでも相談しよう。
あと仕事のあとは打ち上げ。二兆円主義を説いたりしました。結局、これがなぜ二兆円なのかというと、かつてのの敵、自然災害に対抗するものが超人的存在者であったように、現在の敵である社会を倒す力なのだ、という話をしました。それと同時に解脱でもある。
そういえば発表が論理的で上手いと評されたけど、なんかこう、なんなんでしょうね。自分ではぜんぜんそう思わないしむしろ下手だし、発表が嫌だから大学院をやめたみたいなところが四割くらいあるのだけど、これは自己を客観視できていないのが酷いという話なのか、単に正確な評価がされていないという話なのか。これを区別するのは僕にはとても無理だけど、僕が納得しなければ意味がないのであって、恐怖感しかない。ううむ。
ユーフォ十一話、これまた凄いですね。彼女はどこまで行けるんだろう。でも、ここで折れることを知れなかった彼女は、どこかで挫折したときどうなってしまうのだろうと、これは、僕はつまらないことを心配するのだな、と思うのですが。
それよりリボンの子は他人にものを頼むことをちゃんとできる子だったので、ちょっと好感を持ちました。あとは彼女がこの経験から誤った学習をしないか、それだけが心配です。君は基本的には正しいんだ、君は立派だ、どうかそれを忘れないで。(でも僕は君の名前を忘れました)
さて、なんかお腹いたいし朝からずっとしんどいですが、熱は本当にないらしいので、まあ早めに寝るくらいで。WWDC一本観ようかな。
喉の痛みが抜けません。左右左右ときていま三度目の左に来ました。なんだお前は。
仕事はIAPまわりの検討。とりあえず必要な手順は洗い出したけど、工数はまだ未知数。あと、これ規約的に大丈夫なんですか、みたいな話もあって、僕としてはグレーゾーンに手を出したくはないのだけど、きっとそんな風に思ってはくれないんだろうな、という諦めもあります。うーん。
あと四半期面談をしました。最近思っていることとかちょっと話せたのでよかった、けど、ちょっと話題の方向性を失敗したような気もする。もうちょっとメンタルな問題なのよ、これは。
勉強会、Haskellの次はなにがいいですかねえ、という話もしました。リファクタリングの本とかやるのもよさそうだし、「レガシーコード改善ガイド」とか読むと即戦力になるかも、とか。Haskell勉強会、なんだかんだで良い雰囲気で続けられているので、このメンバかもうちょっと加えたくらいでまたなにか読みたいなと思うわけです。うん、楽しいな。
あと会社の人とslackもっと使いこなしてゆきたいよね〜という話をしたり。redmine連携とかするといいのでわ、みたいな話をしたけど、webで見つかるredmineスクリプトは非常にふがいない感じなので、やっぱり作るかなあ、とか。coffeescript、だいぶ慣れてきた(最近はtwlg関係でも書いてるし)。
そういえばtwlgはインポータとクローラがちゃんと動くところまできたので、今夜あたりpm2の設定とかしてデプロイしようかしら。でもpm2のcron機能はちゃんと動いていないらしいので、それはやっぱりcronでやるしかなさそうです。しょぼーん。
「国旗及び国歌に関する法律」という短い法律があって(二条しかない)日本の国歌は「君が代」である、と定めているのですが、果たして歌というのはどこまで法律で縛れるのでしょうか。この法律には歌詞と楽譜が添えられているので、音階までは定義できるのですが、見た感じテンポの指定は存在しないし、たとえばキー?を変えて歌うとどうなるのかとか、下手な人が歌うとどうなるのか、などの規則は存在しません。これが問題になる状況は人工的にさえ作るのが難しいと思いますが、そういう場合に裁判所はどういう判断をするのでしょうか。というか、どういう根拠で判断すればよいのでしょうか。
この難しさは、料理のレシピにも似ていると思います。一応標準的とされる手順やいくつかの要素はあるけれども、作る人や時や場所によってさまざまに形を変える(たとえば「雑煮」とは何か、など)。おそらくウィトゲンシュタインならば「家族的類似」を指摘するでしょうが、それは法律というものと非常に相性が悪い。今はぜんぜん似通っていない二つのものを繋ぐ中間地点が未来のどこかで現れないとも限らない(誰かと誰かとが結婚し子をなす前には家族的類似で結ばれないように)。それはどう扱うべきなのか。
みたいなことを。
昨晩はlogtのリニューアル作業をしました。見た目一切変わっていないけど。ただ、socket.ioが1.0になってwebsocket通信のエントリポイントが変わったらしく、Apache側の設定に変更が必要でした。wtbmに書いてるのもう古いからdeprecatedって書かなきゃな。まあ今更あんなの参考にする人いないだろうけど。というかnodejs使う人ってだいたいnginx使ってるイメージある(だからこそ助けになるという話でもあるのだけれど)。
次はとりあえずCSSをlessだかsassだかで書けるようにしたいですね。あとちょっとだけUIを調整して2015年風にしようかしら。そのあとは、いいかげんちゃんとしたフィルタ機構とかペジネイションとかつけたい。でもこれ最初のときもそう言って結局一年有耶無耶にしたし、やらないかも。
今日はコードを書かずに勉強会の準備をしました。Xcode7のPlaygroundはちょいちょい落ちるので大変です。defer便利ですね。
あと月次報告会と飲み会。会社の飲み会であんなに人々が盛り上がるのは珍しい気がする。僕も飲まないつもりだったのに途中から結局そこそこ飲んでしまった。後悔することがないといいのだけど。
週末はゆっくりしたい。数学が中断してるから再開したいかな。ああでもhubotのredmine連携を書くって言ったのだった。ってかtwlg。あー、身体が足らない。
深井さんの記事( http://raprto.hatenablog.com/entry/2015/06/19/144255 )に触発されてこれを書くことにしましたが、いま僕は氏の主張をあまり正確に思い出せない状態でこれについて考えたり書いたりしているので、内容的に被っているところがあるかもしれないし、(特に道徳について)まさに氏の記事の影響によってそう考えるようになったことでさえ有り得るかもしれません。
自由意志について書こうというときにこうしたことで悩むのはちょっと愉快なので、はじめにそう書いておきます。
〈僕〉だけが〈自由意志〉を持ちます。それ以外の人は自由意志を持つと主張するかもしれませんが、それは〈自由意志〉ではありません。それでいいならどうぞご自由にお持ちください。社会は自由意志の存在と、その上に構築できる「責任」機構を前提してタスクやリソースの配分を決定しています。
物理学は決定論とは関係がありません。量子力学がどうという問題ではなく、あれはこれまで書かれてきた書物の読みかたを与えてくれるものであって、これから書かれるものをあらかじめ与えるものではないからです。このたとえ話は当然ナイーヴに過ぎており、書かれるとは何ぞやという余計な話を生むのですが、とにかく関係がありません。推論は演繹ですが、信じるのは帰納です。物理学によって物理現象が高い精度で予測できる(し、その精度は十分な未来には無際限に高められるだろう)というのは「いまのところ」の話であり、未来永劫にわたって予測が(原理的に)可能である、とするのは信仰の領域です。
決定論は〈自由意志〉とは関係がありません。特に、人間の行動が外部からの入力とそれに伴う脳の状態変化だけで決定されてしまうことは〈自由意志〉とは関係がありません。自分が意志するよりも時間的に前の時点で脳の活動が開始していることは〈自由意志〉とは関係がありません。
まず、「見る」という言葉の話をします。たとえばなにかを見るというとき、それは解剖学?的には網膜に集められた光を細胞が感知して視神経や視覚野を経由して「見える」ということが起こるのですが、ここでなぜ「我々は網膜像を見ている(にすぎない)」という言いかたができないのかというと、それは「見る」という言葉が「目の前の対象を知覚する」という意味を含むからで、つまりこうした解剖学的事実は「見る」こととはまったく関係がありません。
〈自由意志〉についても同じことが言えます。脳がどうなっているとかそういった事実は〈自由意志〉とはまったく関係がありません。言ってしまえば「自分は自由意志を持っている」という感覚が〈自由意志〉です。その感覚は、自分の身体を動かすということや、自分の計画した通りにものごとが制御できることなどによって獲得されてゆきます(この意味で、「決定論こそが自由意志を可能にしている」という指摘は上手いと思います)。それらについて「我々が自由だと思っているものは実は自由ではない」と思うことは、「我々が見ているのは網膜像である」と思うことと類比的だと思います。
自由意志と〈自由意志〉の違いの話をします。僕が持っているものだけが〈自由意志〉で、それ以外の人が持っていると呼ぶものは自由意志です。
「自分が見る」ということが問題になっているとき、それは自分が見えているかどうかが問題になっています。これはこれ以上疑う余地のないことで、これは〈自由意志〉に対応します。
一方、「他人が見る」ということはそうではありません。他人が「見て」いることは自分にはわからないからです。実際に他人についてこのように言うとき、それはたとえば、その人が目をそちらに向けている(、という、その言語の使用者に確認できる)事実や、その人が目の前にあるものに対して妥当な応答をできる(、という、その言語の使用者に確認できる)事実によって確認されます。
これは自由意志に対応します。人が自由意志を持っているかどうかは、その人が周囲の状況に対して妥当な応答をできるかどうかによって確認されます。裁判などではこの種のことが行われています。
最後に責任の話をします。これは明らかに(〈自由意志〉ではなく)自由意志に立脚して作られています。社会に参加することは、この自由意志を自分に適用することで(も)あり、その上に構築される責任などのシステムによって、社会のリソースとコストの配分に加わることです。そうして与えられる自由意志は、〈自由意志〉と部分的に食い違うかもしれないし、仮にそもそも〈自由意志〉がなかったとしても、そのこととは関係なく与えられるものであり、利用できるものです。
もちろん、そうした配分や、責任に伴う罰などの概念をこれだけで決めてしまうことは、倫理上の問題を含み得ます。たとえ責任概念がこうした「脱色された」自由意志のみによって構築できるのだとしても、そこで落ちてしまったもの、認められないものが存在し、それをどこかで保護しなければならない、ということも、社会の共通認識として存在するからです。しかしここではそれには触れません。
以上です。