0220
喉の痛みは改善しました。やったね。ただ抗生物質のせいでお腹が痛いのは続いています。
この薬を飲むと腸内細菌が死ぬのでお腹が痛くなる、という理屈がまさにその通りに動作していることが実感できるので、じゃあ腸内環境を改善することができれば腹痛を遠ざけることもできるはずだなと、同じだけのリアリティで感じることができ、これはすこし期待ができる。どうすればいいのかな、調べる価値はあると思う。
お昼から仕事。ホーム画面のアニメイションはほぼ完了。長かった。一度思索と試作(駄洒落)してあったから組み込むだけでスンナリいくだろうと思っていたのだけど、僕はこういうのを作り直さずにはいられない性分なのと、あと単純に組み合わせてみるとなかなかうまく動かなかったのとで手間取ってしまった。これは僕の精神構造上の課題だろう。というかもっと多めに工数を見積もるべきだった。でもこれ、言うは易しだよなって思う。それに多めに見積もったところでこれ縮まないのって言われたら縮むと思いますって答えたくなる誘惑に勝てる自信はない。難しい。それに、僕だってちゃんとしたもの作りたいのだ。
手間が掛かっただけあって素晴らしいものが出来ていると思う。負けませんよ?
夜は取締役に夕飯をおごってもらいました。闇っぽい話を聞きました。
(これは夢なのですが)昨夜、夜中にいきなり目が覚めて嘔吐して、しかしなぜか都合良く枕許に洗面器があったり視界が不明瞭だったりしたので、ハハァンこれは夢だなと思ったのだけど、しばらくしても覚める気配がないので、しまったこれは夢じゃないらしい、視界が不明瞭なのは寝ぼけているだけで、本当はこれは現実らしいぞ、と思ってとにかく起きようと思った、というところで目が覚めた。なんだ、夢だったのか。最初からそう思っていたんだよ。そのあと否定したけれど。
それで思ったのだけど、結局明晰夢ってのはなんなのだろうかということ。それは結局単にそういう内容の夢だったに過ぎないのであって別に特殊な出来事でもなんでもないのではないだろうか。
(予想される反論:しかし「明晰夢を見るテクニック」なるものが存在することは事実だ(この「そのための手順がある」ということが存在論?において重要である感じはちょっと考えるに値する気がする)。この反論のことは今日は考えないことにする)
夢が夢であることを夢の中で知ることはできない。現実が現実であることを現実の中で知ることはできないように。あるいは、現実の中の現実と夢の中の(その)夢とはまったく同じもの、〈現実〉であって、それ以外のものなど存在しない。現実の中で現実が〈現実〉でないことも、夢の中で夢が〈現実〉でないこともあり得ない。そしてそのことは否定する方法さえない種類の正しさだ。だから夢の中で「これは夢だ」と気づく、ということに意味はない。その気づきは超越的でああり、だから本当に意味することなどできないのだから。水槽脳と同じ構造である。
夢の中で「これは夢なんだ」と気づき、そう発言したとする。そのとき夢の中の他者たちはどう思うだろうか。それは、いまこの現実で誰かが「これは夢なんだ」と言いだしたときに思うことと同じである。要するに意味がわからないし、意味がない。だからその信念を根拠に夢世界の秩序を乱すことは倫理的に問題がある。夢の中だから(夢の中の)法を犯すことが許される、とする見解は正当化できない。夢の中では夢の中の法に従うべきである。その上で、夢の中の法は現実の法と異なっている可能性はあり、それに従うことが現実の法に違反することであっても、それは倫理的に問題がないと言える。
夢の内容が操作可能である(現実の自分がそうである以上に)という信念は難しいが、現実でのそれの対応物は単にそういう精神疾患であって、この場合その「能力」を行使して自分の望むままに振る舞うことは許されるだろうか。少なくとも倫理の側に問題は無い、と僕は思うけれど、現実の法律がどう扱っているのかは知らない。責任能力という概念はこの周辺にあるのかもしれないし、それならば少なくとも法律はそれを許すのだろう。ただし治療の対象となる。夢の中でそれを治療されるというのはどんな気分だろうか。自分の思い通りになっていた夢がだんだんとそうならなくなってゆく。最終的にそれは夢ではなくなる。あの夢の中特有の高揚感ももはや感じられないが、病院の人たちは花束で退院を祝福してくれる。
そして夢から醒める代わりに、これが現実だったことに気づく、と続けてみたくなるが、それは構造が入れ替わっただけで同じ話である。本当は世界を意のままに操る力を持っているのに、それを忘れてしまった人間がいたとしたら。
別になんの話でもない。