0117
昨晩は朝までAtomのkill-ringを調整していました。なにしたんだっけ。とりあえずおおむね動くようにはなったので、実運用に入ったのだっけ。いまのところは普通(普通)。ただリングバッファの周辺に不具合があるのでテストを書いています(ちゃんとテストを動かす方法がわかった)。うん、なんだかいい感じだ。
とりあえずテストが一通り揃ったら簡単に公開しちゃおうかなと思います。まさかこういうコミュニティへの最初のcontributionがこんなテキトーに作るプラグインになるとは。
あと本格的に旧マシンをお払い箱にするためにデータの移行をしています。あとWindows環境を作るためにWindows8.1のダウンロード版を買いました。ISOがゴロンと出てくるものと思っていたらISOをダウンロードするexeファイルが出てきて、ってブートストラップかーい!って思いました(仕方ないので旧マシンをもう一度叩き起こしてISOを取得しました)。
実行環境、bootcampにしようかとも思っていたのだけど、ゲームするためにいちいち再起動するのとかアホらしいよねって思ったのでParallels Desktopを検討しています。とりあえずいまWindows8.1の評価版をParallels Desktopの評価版にインストール中。
表現の自由について最近よく話題になっているのですが、僕はどうも、多くの人はべつに表現の自由に興味があるのではなく、優等生の回答に興味があるのではないか、と思っています。いまは表現の自由が流行りなのでそれを主張している感じ。そういう態度の帰結として、「これは表現の自由だ(良い表現だ)がこれは表現の自由ではない(悪い表現だ)」という種類の主張が出てくるのでしょう。
表現の自由がなにかを解決したり、世界の平和や人々の幸福に貢献するものであるかのような語られかたには僕は違和感というか反発があって、前にも書きましたが、それが素晴らしいゆえに表現の自由が護られるのだとしたら、それは単に「役に立つものは使おう」という話であって、「自由を護る」という主題とはまったく関係が無いからです。それって、自由を護ることによって護ろうとしたものをまったく蔑ろにしてしまう可能性ではないかね。誰にも役に立つと思ってもらえなかった者たちをこそ、護らねばならないのではないかね。
とはいえ、おそらくオリジナルな形での表現の自由は人類には(まだ)無理なのかもしれなくて、そういう場合にそれをどのように変形させて人類に使える概念にしてゆくか、という判断が行われているのでしょう。それはまあ、重要な課題だ。だけど、それはもう自由じゃない。だからそれは、自由の問題などではない。そういう立場です。