diary

0901

九月になりました。今月の三十日は僕の誕生日なんですよ。


これといってなにもしていません。Objective-Cランタイム・プログラミング・ガイドを読んでいます。こうやって実行時に動的にごにょごにょするプログラム、まあ書けるにこしたことはないのでしょうが、そんなに便利でもないんじゃないかな、みたいな。

夜はskypeで母の愚痴を聞きました。この数日なんだかやる気が出なくて憂鬱だそうです。ははは、そりゃ奇遇だね、僕はこの半年くらいずっとそうだよ。
感情をお金に換算して交換可能なものであるかのように扱うこと、社会で生きてゆく上では必要なことなのだと思いますけど、けっしてよいことではないよなあ、と思います。感情ってのはそんな風に扱えるものではないし、それをそのように扱えるふりをすること、たぶん健全なこととはいえない。


明日は大学にゆきます。お昼前にゆけたらまあ上出来。たぶん図書室にこもって作業しつつ本を読んだりするでしょう。それならすこし前向きになれそう。


0902

お昼から研究室にゆきました。研究室というか図書室。今日も快適に計算を進めながら本を読むことができました。四時くらいからは計算は飽きたので本ばかり読んだりインターネットをしていました。まあまあ有意義な時間。すくなくともつらくはない。

夜は同期たちと一緒にケンタッキーにゆきました。そう、ケンタッキーが急に食べたくなったのです。ケンタッキー、知名度のわりにあまり食べたことがない(でもマクドナルドだってそういえばこの三年くらい食べていない気がする、いやそんなことないか)。


「「ある言語では良い意味に、別の言語では悪い意味になる言葉を水に聴かせればどうか」などという問題に頓着するのはまったくの愚問であり、答えはもちろん「ある言語では美しく、別の言語では醜い結晶ができる」である。使用する言語がものの見えかたに影響を及ぼすと知られたのは今を遡ること二世紀、」
ここまで考えて放置。ちょっとほめられたのでうれしい。そう、書けただけ、をゴリ押しして無理を通す馬力がほしいですね。

今日思ったのは、僕は僕が日本語で思考しているように思っているけれど、それは僕が日本語しかまともに使えないからそう思えるだけであって、思考してる脳の側としてはただの無機質な記号を操作しているだけなのではないか、みたいなこと。このことを考えると僕って誰だという問題になるけれども。でも日本語も英語も手話も言語野サイドからはなんの違いもないのかもしれないし。
こないだ僕は「思い浮かべる」ことで何かを思い浮かべられる気がするのは気のせいかもしれない、みたいなことを書きましたが、「考える」こともそうなのかもしれません。考えるってなんだ?頭の中で「考えるってなんだ?」という声がしたような気がする、それはほんとうに「そういう声がした」気がしたのか?騙されていないか?僕が思えることがそれに限定されている、僕は「『そういう声がした』気がする」ことしか許されていないだけなのでは?

世の中には手話でコミュニケイションをとり、手話で考え事をするひともいるのだと思うと、世界の広大さの前に目眩がする。人間は人間同士でさえ、こんなにもわかりあえない、こんなにも遠い。僕の想像の届かない世界がこんなにも広大なのだと。


明日はバイトです。カウンセリングは先生の都合でお休み。だけどこないだの採血の結果を聴きに行くのでやっぱり午前中に保健センタにゆきます。


0903

ドラえもんの-99歳の誕生日ですね。
僕はずっと幼いころ、ドラえもんに会いたいと思っていて、だから長生きするにはどうすればいいですかと母に訊いたら、ひじきを食べなさい、ひじきは鉄分が豊富だから、と言われたのを憶えています。


午前中に保健センタで採血の結果を聞いたのですが、どうもいっしょにやった尿検査でちょっと糖が出たらしく、またしばらくして(来月くらい)血液検査をしましょう、ということになりました。えー。ってか僕大丈夫なのか。この歳で糖尿病はちょっと遠慮したいぞ。まあ、きっとだいじょうぶでしょう(根拠のないものを信じるのかい?)

午後はバイト。前回悩んでいたところをぷちぷち潰しましたが細かいところをちまちま作るのにけっこう手間取って、結局全部は終わりませんでした(ほとんど終わったけど)。これが一番いい解法だったのか、とても不安になります。でも、いちばん綺麗には違いないと思うから、まあ、いいか。
あと後輩に二回ほど相談されて困難を撃墜しました。先輩の面目。

夜はちょっとプログラミングしています。Objective-Cのランタイムをゴニョゴニョして、プロパティ宣言から動的にアクセサを作るところ。低レベル文字列操作が次々飛び出してくるのでgoogleで検索しながら殴り倒す。


たとえば、現実にいる人に意識が存在すると考えることと、夢の中で会った人に意識が存在すると考えること。この二つはどのくらい隔たっているだろうか。
現実をゼロ階の夢としよう。普通の夢は一階の夢、夢の中で見る夢は二階の夢だ。ゼロ階の夢と一階の夢は、ゼロ階の夢は夢ではないという意味で異なっている。だから、ゼロ階の夢の登場人物には意識があって、一階や二階の夢の登場人物には意識がない、そういう主張ができる。
でも、ほんとうに現実はゼロ階の夢なのだろうか。もしここが一階の夢で、普段見る夢が二階の夢であったとして、我々はそれに気づくことができるだろうか。できないのではないか。もしそうなら、我々がいま直面している世界を現実すなわちゼロ階の夢とみなす根拠はどこにもないことになる。それなら、実は目の前にいる人間の意識なんて夢の中で想像された意識と同じようなものなのではないか。
そもそも、夢の一番浅い場所、ゼロ階の夢なんて存在するのだろうか。ただそこには、「夢の夢」と「夢」との間に「夢である」という関係がある、というだけで、どこまでいっても夢から醒めることなどないのではないか。
というようなことを考えていましたが、よくわからないです。でも、僕は想像の中の誰かと目の前の誰かとをどれほど異なる存在とみるべきなのか、よくわからなくなってしまいました。目の前にいる誰かだって、目に映った映像でしかないわけです。それがゼロ階の夢なのかN階の夢なのか、それは誰にもわからないはずです。水槽脳仮説と近い話にも思えますね。

夢と塵理論。夢の中でたしかにその人物は計算されたのだから、僕が夢から醒めたとしても、一度「発進」した夢の世界は続いてゆくのではないか。どこかで。


明日は午前中に保健センタ。いつもよりちょっと早いので早起きしなくてはいけないでしょう。午後は研究室ですがまあどうせ図書室。昨日準ボスと議論した箇所をすこし条件を変えて再計算する感じ。


0904

昨夜は朝の五時までコードを書いていました。いろいろ達成したけどいろいろ挫折もした。Objective-C、根本的に動的であるように設計されているけれども、そのベースにあるC言語の要素(たとえば構造体)がヒトの尻尾のように残っていて、そこが完全なメタプログラミングを不可能にしていました。悔しい。でも、まあ一応の機能拡張には成功したと思うので、これで満足しておこうと思います。

成果物ですが、しばらく寝かせてからgithubにでも公開しようかなと思います。あれ使ったことないけど。ひぇぇ、僕もプロフィルにgithubアカウントを載せる身分になるのかね。


上述の通り眠ったのは五時でしたが診察の都合で起きたのは八時。でもやっぱりすこし早めに目がさめてしまいました。困ります。

それで診察。今日は「あなたの一番秀でていると思う能力はなんですか」とか訊かれて、それで恥ずかしながら「連想能力は高いほうだと思います」と答えました。でもこれちょっと強力すぎるよな。また無意識に見栄を張ってしまった。
じっさい、低いということはないと思うのだけど、なにぶん知識が偏っているから、ほんとうはわりと普通なのが高速に見えているだけかもしれないし、そもそもぜんぜんそんなことないのかもしれない。僕は普通の人よりも一言よけいに言う人間だと思うけど、それは他の人が思いついても黙っていることを言ってしまうというだけのことなのかもしれない。他の人とか考え出すと難しくてよくわからない。

そういえば、先生と話していて思ったのだけど、準ボスから定期的に指示をもらうようになって、自分のすべきことがつねに(それなりに)明確であるようになったことで、自分が「どのくらい休んでもいいか」もまた明確になって、その分別の作業(たとえば読書やプログラミングの勉強)に集中することができるようになった気がします。以前は、なんとなく研究室にいてぼんやりして(でも研究以外のことをする気持ちにもなれない)いたりしていて、よくなかった。それが改善したのはよいことだったな、と思います(なんだこの単純な記述は)。

診察のあとは大学の図書室へ。なんだか保健室登校ならぬ図書室登校って感じです。それで十一時ごろからコードを書いて(上述の)、完成したのが十四時か十五時くらいだったかな。寝不足で眠たかったのだけど、それはなんというか、睡魔という単語にあらわされるような甘い誘惑というのではなく、ただただ消耗している、というような感じの、眠ることさえなんだか億劫、みたいな状態だったので結局昼寝はしませんでした。研究のためのシミュレイションもすこししました。

ラマチャンドラン「脳のなかの幽霊」を読み始めました。ちょうおもしろいというか、わくわくします。僕はこんなおもしろい本があるのにいままでそれも読まずに脳梁切断がどうとか言っていたのか。早く読まねば。続刊も買って読まねば。


夜はぼんやりしています。ちょっとだけ昼間書いたコードを修正したりした。あとちょっと読みたいものとかあるけど、ねむたいから読まないかもしれません。

明日は特になにもないのだけど、まあお昼頃に研究室(図書室)行って本を読みつつ計算しましょうかね、という感じ。


僕はここにもっと思ったことを書かなければならないような気がする。いつしか、考えたことはTwitterに書いただけで、こっちにはいちいちまとめたりしなくなってしまったような気がするけど、そんなことでは(この前の週末がそうだったように)休みの日の日記がほんとうに内容のないものになってしまうだろうし、これから会社勤めをするようになって、毎日がもっと仕事ばかりのテンプレ化してしまったら、平日の日記もどんどん薄いものになってしまって、もうそんな日記を書き続ける意義を見出せなくなってしまうと思うのです(いまの日記がなにか意義のあるものだという話でもないのですが)。だから、僕はもっと思ったことをここに書かなきゃいけません。そうしようと思います。そうしよう。


0905

ほんとうは午前中には研究室にゆきたかったのですが、朝起きたらとても眠たかったのであきらめました。昨日の睡眠不足がこんな形で響いてきたのでしょうかね。やれやれです。

午後から図書室。でも今日はわりと遊んでばかりいたような気がします。というかmacbookの環境整備。GrowlをNotificationCenterに送ってくれるBarkというプラグインをインストールしました。うまく動いてくれて満足(だけどこれどうやって各アプリの識別子?(かなにか)を偽装してるんだろう?それとももっと違う動き方をしているのか)。あとTweetbot for macもすこし調整して、3カラム構成を試してみているのだけど、timelineをリアルタイムで流すとちょっとCPUに負荷かかってる感じがしますね。どうしよう。400%中の15%くらいでしかないんだけども。

研究は低空飛行です。ちょっとおもしろい現象を見つけたのだけど、結局いまいちっぽくて、はあ、みたいな。とりあえずちょっと精査することにしたけど。

そういえばmacbook airを買いました。よく考えるとMavericks待つ理由ぜんぜんなかったし。届くのは来週なので、次の週末が環境整備に潰れる心配もなし(月曜日にまた準ボスと打ち合わせをするので準備に集中せねばならぬのです)。家に置く用の電源アダプタも買ったので、これで多少いろいろと快適になりそう。うきうき。

明日はバイト。それが終わったら週末です。でも週末は圭様さんに勉強を教えにゆくかもしれないので(「かもしれない」は「教えに」と「ゆく」のいずれにも掛かります)お酒は飲まないかも。


僕は研究に向いていない、というのは、適正がゼロという意味ではなく、たぶんマイナスなのだろう、という意味だ。僕は、ひたすら遠い星を目指して宇宙へ繰り出すことよりも、最初から高さが決まっている塔を建てることのほうが合っているのだと思う。品質を上げたいという願いはあっても、未知へ挑もうという気概がない。そういう性格にとって、研究という行為はただひたすらに苦痛だったし、逐一課題を与えてもらうことでなんとかできるようになりはしたけれども、だから僕には研究は向いていないのだ、と思う。

谷川俊太郎「二十億光年の孤独」を買いました。だけど、ぺらぺらと目を通してみて悲しくなりました。僕にはこういった感受性というものがまったく存在しないのだと、それを思い知らされるだけなのに、なぜこんなものを買ったのだろう。たぶん僕はかすかに期待していたのだ。すばらしい詩が僕の頭の深いところにある心をついに救い出すのだと。息を吹き返した心ははげしく共鳴を始めついに僕の身体に血が通い始めるのだと。でもそんな期待は果たされなかった。勝手な言いぐさだ。もともと期待するほうがどうかしていたのに。

血液型と性格の相関が実際にあるのかないのか僕は知りませんが、血液型性格診断を非難するという行為がなにか理性を誇示する安易な手段として使われている現状は好きではないです(もちろんそれによって差別したりとかそういった問題はぜんぜん別のこととして否定されなければならないのですが)。

そういえば先日2ちゃんねるで個人情報の流出が起こっていましたけれども、こういうできごとを根拠に匿名性を否定するというのはどうも好きになれません(そういう形式をとった小学校の授業があったそうですね)。だったら俺が完全な匿名性を実現してやるよ、というのがたとえば47氏のようなひとだったと思うのですが、とにかく僕は技術というもので世界観を塗り替えるのが好きです。だから、ほんとうになにを書いても特定不可能になる(もちろんその内容によって特定されることは防ぎきれませんけれども(自然言語解析によって身元に繋がる情報を自動的に攪乱するプロキシを通すというのはどうか?))技術というのがさっさと登場すればいいと思うし、それでインターネットが無責任な罵詈雑言であふれたら、こんどはフィルタリングの技術がそれを解決する、そういう風にどんどん進めばいいなと思っています。素朴に。
まあ、匿名だからって罵詈雑言を発するというのも僕には共感しがたいのですけれども。たぶん、自分の言葉が好きすぎるのでしょうね。

あと祈りと願いの違いとか。以上が今日思ったことでした(でした)。


幻脳の声がする

「なんですって?」
私は思わず叫んでいた。
「ですから、お話ししたとおり、私には脳がないんです」
「脳がない、って」馬鹿も休み休みにしてほしい。「いやじゃああなたは誰なんですか」
「幻肢という現象をご存知ですか」
聞いたことがある。事故で手足を失った者が、失ったはずの手足の存在を生々しく感じ、痛みさえ感じるというあの現象だ。
「それがあなたとどういう関係があるのですか」
青年はぼんやりとやや下を向いていた視線をこちらに戻し、意を決したように唇をきっと結んでからこう答えた。
「私は、事故で失った脳の幻肢……これは幻脳というべきでしょうが……それを感じているのです」
私は青年がなにを言っているのかわからなかった。
「ええと、待ってください。もしもあなたがほんとうに脳が無いんだとしたら、その幻脳を感じることもできないはずですよね?」幻肢というのは簡単にいえば脳の不具合なのだから。
「ええ、ですから幻脳を感じているのがその幻脳自身なのです」
私はだんだん眩暈がしてくるのを感じた。「なぜそう思うんですか?」
「デカルトはご存知ですか」
「ええ、知っていますとも。われ思う、ゆえにわれあり」
「そう、まさにそれです。私の脳は私に脳があると思っている。それゆえに、私には脳があるのです。しかし実際には、」青年は薄笑いを浮かべながら自分の頭を指差す。「この頭蓋の中に脳はない」
「ちょっと待ってください」その日の診察はそこでお終いとなった。

一週間ほどして、青年がまた訪ねてきたときには、私はすでに彼への治療法を見つけていた。
「来なさい。幻肢の治療に鏡が使われることは知っているかね」
「ええ。失った左腕のところに、鏡を使って正常な右腕を映してみせるそうですね」
「それを試そうと思う」そう話しながら私は青年を奥の部屋へと案内する。その部屋には、このためにあつらえた特別製の大きな鏡が置かれている。
「見たまえ、これが君の姿だ」
「はい、私の姿が見えます。でも……おかしいな、先生が見えませんよ」
「そんなはずはない。ちょっとどいてくれたまえ」
青年はその通りに場所をずらして私に正面を譲る。
「なんだ、見えるじゃないか」そこで私もおかしなことに気づく。「いや、しかし今度は君の姿が見えなくなってしまった」
「最初からいなかったんじゃないですか」青年が不気味なことを言う。
「まさか、だって現にこうして」こうして話している、そう答えるつもりで後ろを振り返るとそこに青年の姿はない。おかしいなとまた鏡のほうを向き、そこに映った自分を認めたそのとき、私はすべてを理解した。最初から、そんな人間はいなかったのだと。いや、もしや。
「なんてこった……」私は呆然と鏡をみつめながらつぶやいた。そこに映る姿はもうない。「私はいったい……」

その声を聞くものはなく、打ち棄てられた部屋に、埃の積もった静寂がただ横たわるだけであった。


0906

大人になれないことはけっして罪などではないのだと、僕は残りの人生のすべてをかけてでも、宣言したいと思う。


昨晩は結局五時ぐらいまで起きていました。なにをしてたのだっけ。ああなんかUILabelのこととか調べて、結局うまくゆかなかったのだった。まあいいさ。


お昼からバイトに。先週から悩んでいた部分をようやくきれいに片付けられました。よかった。だけどずいぶん手間を掛けてしまった、僕はほんとうに正しい筋道を通っただろうか?ただ自分の中のうつくしい彫刻を作りたい気持ちに流されて、繊細だけど無駄に時間の掛かることをしてしまったのではないか?僕が僕に要求した精密さははたして必要なものだっただろうか?そういったことを思ってしまいます。まあでも、とにかく課題は片付いたのだし、これでずいぶんプロジェクトの進捗には貢献できたはずだ。社員のひとは社員のひとで面倒な問題を相手にしているみたいだったけど。

僕もバイトに入って長い(もう三年半になるかな)し、なんか来年就職することをどうも確実視されているっぽいので、ある程度の発言力を持っているのだけど、それはほんとうは出しゃばりすぎなのではないかと思うことがよくあります。僕はあまり周囲によく思われていないのではないか。みんなが思うけど言わなかったことを口に出してしまう、そういう人間としてとらえられているのではないか、そういう疑心暗鬼に取り憑かれます。反証の出来ないことを信じるのは間違ったことだ、ましてやそれで自分を苦しめるなんて言語道断だ、そう思うのですが、信じてしまったことは信じてしまうのであり、現に信じてしまっているのでした。はあ。杞憂だといいな、はあ。

夜はお酒を飲んでいます。圭様さんたちとの勉強会は明後日になりました。なので明日はちょっと予習をしましょう。高校物理の範囲ってどんなのだっけな(あっ、相手は高校生じゃあないですからね(謎の防御))。
今夜はまあすこし調べごとをしたり勉強したりって感じでしょうかね。はー週末だ。


ある種の青色が、僕にとって色覚以上の心地よさをもたらすような気がしています。たとえていうなら、眼の色覚の赤緑青の三色、それに加えてもうひとつの感覚があって、それが刺激されているような。なにか色ではないものを受信しているような。そういう心地よさを感じます。
具体的には、
https://twitter.com/necocen/status/341710998916460544/photo/1
とか。とても好きな青色です。

昼間、バイトにゆく途中で「脳のなかの幽霊」を読んでいたら、幻肢について、「腕が切断されたあと存在できるなら、人そのものが肉体の消滅にたえて生き延びられないことがあろうか。」と言ったひとがいた、と書いてあって、すごい想像力だなと思いました。それで、ちょっとふわふわと考えて、幻脳、というところにきて、それでなんかお話を書きました。それをさっきまとめ直して、ちょっと変えたのが
http://ofni.necocen.info/1221
です。おもしろいかどうかわからないけど、とにかく書けたので、公開しておきます。

そのお話でも書いていますが、幻肢痛、というものがあって、たとえば事故で身体の一部を失ったときに、失ったはずのその部分がちゃんとつながっているような、触った感覚があるような気がして、しかもそれが激痛をともなう、という病気だそうです。僕が初めて幻肢痛のことを知ったとき、そのあまりに「文学的な」症状に、それを知ったのが小説だったせいもあって、架空の病気なのだと長いこと思っていました。「ないはずのもの」という構造は、すこし心をふるわせる性質がありますね。ないはずの心が涙を流す、みたいに。
さっきのお話に書いてあるような、われ思うゆえにわれあり的な存在は、僕の思う幽霊のかたちに一番近いものだと思います。なにとも相互作用しない、ただ、自分はこの世に存在するのだと、ただ信じているゆえに信じている、もしかすると人間は死ぬことなんてなくて、ただそういった存在に移るだけなのかもしれない、そう思うと、さっき引用した幻肢について、人そのものについての考察は、僕の思う死生観に近いところがあるな、と思いました。それだけ。


0907

昨晩は結局五時頃まで調べごとをしていました。CocoaPodsのリポジトリを作成して自作Podを登録するところまではだいたいできるようになったので満足。


今日は十五時くらい?に起きて、それから昨夜調べたことの資料を書きました。書きおわってから思ったけれど、僕は褒めてもらいたいのだろうな、たぶん。まあでも、いい仕事をしたよ、実際(手前味噌)。

それから夕方はappledocとCocoaPodsの連携のことを調べていますが、あんまり情報がないです。ふみゅん。


明日は圭様さんとざくにゃんちゃんさんとで勉強会です。今夜はappledocのこと調べるのもだけど、高校物理の復習でもしようかね(実家から参考書を持って帰ってある)。

やっぱり休みの日は日記が短くなりがちというか、外に出て歩いたりしないと考え事をしないですからね。しょうがないよね。