0505
毛玉の日。
昨夜は「『論理哲学論考』を読む」を読了しました。といっても、わかりづらいところはたくさんあって、きちんとわかるにはまだ時間が掛かるのだろうと思いました。僕はやはり、テクストの読解は異様に苦手であって、文章をそのままに理解することはまったくできなくて、読んでいるうちに理解は道を外れてどこかの茂みに消えてしまって、ある日ふと帰ってきたかと思うと理解の表舞台に颯爽と現れるような、そういう経験が多いように思います。だから、これもある日急に思い出して理解できるのかもしれません。
ともあれ、ウィトゲンシュタインの用意した道具立てと為そうとしたことはだいたいわかりましたから、とにかくよかったと思います。
昼過ぎに起きたのだけども体温がすこし高くちっとも健康になっておらず、とにかく元気でないのはよくないなと思って@n_tomと会うのは延期することにしました(直前になってごめんなさい)。来週には元気だといいなと思います。
それで、なにをしたのだっけ。「ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記」を軽い気持ちで読み始めました。ところどころで、ああこのひとも僕と同じようなことを心配していて、それから僕と同じようなことを願っていたのだな、って思って、一番浅い意味での「泣ける」みたいな気分になりました。
僕も日記を書かねばならないな、と思います。それも、とびきりプライヴェトなものを書かねばならないな、と思います。まず、僕は事象Σについて、書いてしまう必要があるだろう。それは、どうしようもなく貶めてしまうことかもしれないし、実際そういう側面もあるだろうけれども、なにもせずただ忘れてしまうに任せるよりはずっといい。だから、書かなくてはいけないだろう。そのことを、とにかく決意しました。
それに、僕はこの日記を少々おざなりに書きすぎているのでは?という気持ちにもなって、まあだけど、ときどきはそうでないことだって(きっと)あるし、そういうのが蓄積するのが日記というものだから、いいかな(結論が不透明)。
「自分が最も愛するものを結局は神の手に委ねられず、むしろいつも自身の手で弄びたいと思う者は、それに対する正しい愛を抱いてはいないのである。」(1931年、三月一日)