十二月九日ですけど!
午後からバイト。iPadでほにゃほにゃ。iPadのことはすこしわかるようになってきたけど、まだ内部的なこととか、理想的な設計のこととかはわからない。そろそろQuartzのこととかちょっとずつ勉強できたらよいかもしれない。
それにしてもタスクがぷちぷちと消化されてゆくのは気持ちがよいなあ。昇華はされんよ。
ディベートってものが最近流行ってる。小学校でもなんか二手に分かれてよくわからん議論の訓練をするのが流行ってるっぽい。僕はあれが好きじゃない。これから好きじゃないことについて書きます。
ぼんやりと、誰かを説得することとかについて考えていたのです。たとえば、携帯電話の電波が心臓ペースメーカに悪影響を及ぼすから優先座席の近くでは電源を切りましょう的なことが電車には書いてあると思うのですが、最近の携帯電話の電波はそんな影響ない、という話も耳にするわけです。wikipediaのペースメーカーの項に載っている最近の調査によれば、3cmまで近づけてようやく干渉が認められる、とのことらしい。
まあ具体的なデータはどうでもよくて、ともかく携帯電話を使っていてなにか言われたとします。そのときに、まあてきとうにすみませんとか言っておけば済む話なのですが、仮にこのデータを武器に反論したとしましょう。最近の携帯電話はそういう心配ないから、と。でもそこで返ってくる反応ってのはまあ屁理屈言うなだの常識だのなんだの、というものだと思われるわけです(このへんはまあ僕の被害妄想じみた世界観によるところはあります)。
ここで考え事が飛躍します。
僕の想像する大勢の人々は、議論をすることを好まない。常識とかなんかそういうよくわからないものに押しつけて、それに従わないことをよくわからない言葉で否定する。だけど、議論というのは二人の人間がいたときに、両者が共通の理解に到達することのできるひとつの方法だと、そういう認識があれば、議論的なことをせずにはおられないはずだ、と思うわけです。理屈を捏ねずにはおられないはずなのです。
で、そういうことを学校とかで教わるだろうか、と思ったときにディベートのことを思い出したのですが、僕はあれが嫌いなのでなんでかなーと思ったわけです(長い前置き)。あれは、僕の思っている議論とは違う。観衆の存在を前提としたなにかだ。それってふざけてる。
僕の考えている議論的なものというのは、個人と個人が、真っ暗闇の中からどうにかして二人で正しい(または、少なくとも間違っていない)答えを築き上げるためにある道具なのであって、大勢を味方につけるためのものではないし、その大勢が理想的に論理的な思考をするならばまだしも、そんな観衆はいないのです。いろいろな情報を先入観を廃し分け隔てなく考察して真実を見通す理想的な観衆はいません。それだのにそういうものを仮定してそんなものを多く味方につけた方が勝ち、なんてことにしてしまってはいけないと思うのです。ひどい話です。そうではなくて、共通の諒解を打ち立てるための手法としての議論的なやりとりが、もっと奨励されるべきと思うのです。
みたいなことを思ったのでした。でも、この違和感は、僕がかつて、終わらない「終わりの会」で吊し上げられる側の人間だった、ということに由来するような気がします。あの脱力感。で、結局僕も自分が知らぬ間に辿ってきた道筋に拠ってしか思考できないのだなあ、と思って嫌になったのですがそれはまた別の話です。
何を言っているのかよくわからなくなってきた。結局、大域的な正しさなんてものの非存在を訴えかけたいだけなのかも。これについて、もうちょっと考えようと思いつつ、もう考えてもしょうがないような無力感が絶壁してる。
http://togetter.com/li/76956
これのことも考える。この「どうしようもなさ」がなんか自分の心にちょうどよく落ちつく場所があって、じゃあこの先は、と思う。
さて、明日はバイトがないので家でゆっくり論文を読みます。これから数日けっこうヘヴィなスケジュールになりそう。今夜はどうしようかな。けっこう消耗してるしなあ。
さっき今日の仕事についてほめられたのでうれしい。