自由意志にまつわるメモ
深井さんの記事( http://raprto.hatenablog.com/entry/2015/06/19/144255 )に触発されてこれを書くことにしましたが、いま僕は氏の主張をあまり正確に思い出せない状態でこれについて考えたり書いたりしているので、内容的に被っているところがあるかもしれないし、(特に道徳について)まさに氏の記事の影響によってそう考えるようになったことでさえ有り得るかもしれません。
自由意志について書こうというときにこうしたことで悩むのはちょっと愉快なので、はじめにそう書いておきます。
〈僕〉だけが〈自由意志〉を持ちます。それ以外の人は自由意志を持つと主張するかもしれませんが、それは〈自由意志〉ではありません。それでいいならどうぞご自由にお持ちください。社会は自由意志の存在と、その上に構築できる「責任」機構を前提してタスクやリソースの配分を決定しています。
物理学は決定論とは関係がありません。量子力学がどうという問題ではなく、あれはこれまで書かれてきた書物の読みかたを与えてくれるものであって、これから書かれるものをあらかじめ与えるものではないからです。このたとえ話は当然ナイーヴに過ぎており、書かれるとは何ぞやという余計な話を生むのですが、とにかく関係がありません。推論は演繹ですが、信じるのは帰納です。物理学によって物理現象が高い精度で予測できる(し、その精度は十分な未来には無際限に高められるだろう)というのは「いまのところ」の話であり、未来永劫にわたって予測が(原理的に)可能である、とするのは信仰の領域です。
決定論は〈自由意志〉とは関係がありません。特に、人間の行動が外部からの入力とそれに伴う脳の状態変化だけで決定されてしまうことは〈自由意志〉とは関係がありません。自分が意志するよりも時間的に前の時点で脳の活動が開始していることは〈自由意志〉とは関係がありません。
まず、「見る」という言葉の話をします。たとえばなにかを見るというとき、それは解剖学?的には網膜に集められた光を細胞が感知して視神経や視覚野を経由して「見える」ということが起こるのですが、ここでなぜ「我々は網膜像を見ている(にすぎない)」という言いかたができないのかというと、それは「見る」という言葉が「目の前の対象を知覚する」という意味を含むからで、つまりこうした解剖学的事実は「見る」こととはまったく関係がありません。
〈自由意志〉についても同じことが言えます。脳がどうなっているとかそういった事実は〈自由意志〉とはまったく関係がありません。言ってしまえば「自分は自由意志を持っている」という感覚が〈自由意志〉です。その感覚は、自分の身体を動かすということや、自分の計画した通りにものごとが制御できることなどによって獲得されてゆきます(この意味で、「決定論こそが自由意志を可能にしている」という指摘は上手いと思います)。それらについて「我々が自由だと思っているものは実は自由ではない」と思うことは、「我々が見ているのは網膜像である」と思うことと類比的だと思います。
自由意志と〈自由意志〉の違いの話をします。僕が持っているものだけが〈自由意志〉で、それ以外の人が持っていると呼ぶものは自由意志です。
「自分が見る」ということが問題になっているとき、それは自分が見えているかどうかが問題になっています。これはこれ以上疑う余地のないことで、これは〈自由意志〉に対応します。
一方、「他人が見る」ということはそうではありません。他人が「見て」いることは自分にはわからないからです。実際に他人についてこのように言うとき、それはたとえば、その人が目をそちらに向けている(、という、その言語の使用者に確認できる)事実や、その人が目の前にあるものに対して妥当な応答をできる(、という、その言語の使用者に確認できる)事実によって確認されます。
これは自由意志に対応します。人が自由意志を持っているかどうかは、その人が周囲の状況に対して妥当な応答をできるかどうかによって確認されます。裁判などではこの種のことが行われています。
最後に責任の話をします。これは明らかに(〈自由意志〉ではなく)自由意志に立脚して作られています。社会に参加することは、この自由意志を自分に適用することで(も)あり、その上に構築される責任などのシステムによって、社会のリソースとコストの配分に加わることです。そうして与えられる自由意志は、〈自由意志〉と部分的に食い違うかもしれないし、仮にそもそも〈自由意志〉がなかったとしても、そのこととは関係なく与えられるものであり、利用できるものです。
もちろん、そうした配分や、責任に伴う罰などの概念をこれだけで決めてしまうことは、倫理上の問題を含み得ます。たとえ責任概念がこうした「脱色された」自由意志のみによって構築できるのだとしても、そこで落ちてしまったもの、認められないものが存在し、それをどこかで保護しなければならない、ということも、社会の共通認識として存在するからです。しかしここではそれには触れません。
以上です。