0102
結局まだ実家にいますが風邪を引いたらしく寝込んでいます。こんな状態で(朝はちょっと食欲ないくらいだったのだけど)伯母一家と会食をしたけれど、具合が悪くてずっとウェーとなっていました。今もウェーとなっています。なんだこれ。
母を見ていると、このくらいの年代の主婦女性というのはみんなこういう感じなのかなと誤解するけれど、姉である伯母を見ているとそんなことはまったく事実ではないことがわかります。薄々感づいていたが母は異常者なのかも。(そして、その異常性はかなり強く僕に継承されたと感じることがたびたびあって厳しい)
母が、自分が若かった頃は祖母に対していろいろな感情を抱いていたものだけれど、自分がそのくらいの年齢になると祖母には祖母なりの考えがあったり一生懸命だったのだな、と感じられるようになった、というようなことを言っていたのだけど、そうなったときに、かつての自分の感情も同時に思い出せるのでないのだとしたら、それはただ自分の都合のよい感情移入を(向き先を変えて)繰り返しているにすぎないのだし、共感という単語の欺瞞性がここに端的に表れているのだろう。結局、人間は自分の共感したいものにしか共感できない。共感によって新しい知見が得られるわけではない。むしろ自分の感情を正当化するために他者が用いられている。
そういえば従弟(だよね?)が今月大学入試だというので僕の大学入試エピソードが掘り返されるなどしました。いやいや、確かに僕は年が明けるまではそれほど無茶な試験勉強はしなかったけれど、だからってなにもしていなかったわけではないし、実際三年生になってからは数学の演習の課題を解いたり物理の演習書も一冊終わらせたりしたのよ?(とはいえ僕自身が「いや〜ぜんぜん勉強とかしなかったっすよ〜」とか言っていた時期はあるのでアレなのだけれど)あと世間の人たちは学校の宿題をちゃんと済ませたくらいでは勉強と認めないのかもしれない。それにしたってのだめカンタービレの再放送を見ていたくらいで正月遊びほうけていたって言うのはよしてほしい。受験生だってドラマくらい観る。
当時の私的な記録には、「がんばれるのってせいぜい十日だよね」みたいなことが書いてあって、ほんとうにそうだよなあと思います(僕はその十日を数学の演習量不足にあてたのでした)。よく言われることですが、「努力」と「我慢」は違っていて、努力には我慢が伴うことが多いから、我慢することが努力かのように見えてしまい、結果的に目標達成のために我慢をすることが重要のように誤解されているのでしょう。この誤解は百害あって一利なしなのだけど、残念ながら反論がしづらい。そういう種類の誤解ってのはたくさんある。
あと、なにかの流れで「勉強するというのは、(一般にそう思われがちなように)心の中にある私的なノートに書き入れてゆく作業ではなく、野球部が素振りを重ねるような活動に近い」というようなことを言いました。たぶん勉強の効率の話だったと思います(授業を聴いているときはわかった気になるけれど、というような)。まあ演習大事だよねという話なんだけど、言い回しが完全にウィトゲンシュタインの影響を受けていてアレだ。まあ、いいさ。
さて、寝込んでいるとほんとうに惨めな気持ちになるのだけど、寝込んでいないと治らないので寝込むしかありません。これ明日には良くなってくれないと困るなあ、明後日には東京に戻るんだから……